【球界再編に揺れた04年の記憶】

 「あの頃、野球はほとんど見てなかったなぁ」

 先日、同い年の元同僚とランチを食べながら、00年代前半のプロ野球の話になった。そうなんだよね、と思わず相づち。誰だって似たような経験があるのではないだろうか。大学入学、就職、転職、結婚、出産…人生の変わり目は野球どころじゃない時がある。個人的に就職した2004年はプロ野球を、というかテレビそのものをほとんど見れなかった。夜中のプロ野球ニュースで巨人戦の結果をチェックする程度。小さなデザイン事務所で毎日朝から終電近くまで働いて、フラフラになってワンルームマンションに帰宅して寝て起きたらまた朝。働いてまた働く。マジかよ…死んじまうよコレ。けど、当時の制作系の会社はどこもブラックな環境が当たり前だった。要は最初は技術やセンスよりも、根性と覚悟が試されるあの感じ。とりあえず半年やって現場経験を稼いで次に行こう。腹を括り3月末から、9月30日までそういう生活を続けた。今でも出社最終日の帰り道、久々に見た夕方6時の空の真下、ようやく終わったと放心状態になったのをよく覚えている。

 だから、この年のプロ野球の記憶はあの「球界再編問題」以外はほとんどない。当時の各雑誌の表紙を見ると、Number611号には『ガンバレ、ガンバレ、野球!』の見出し。04年9月の時点で「2005年からはセ6球団、パ5球団という少しいびつな形になりそうだ」という切実なキャプションに驚くし、スポルティーバ11月号にはデカデカと表紙全面に『野球を救え!』の文字が確認できる。もはやペナントどころじゃない危機的シーズン、まさにリアル“プロ野球死亡遊戯”である(この球界再編問題はいつかこの連載で改めて取り上げようと思う)。選手やファン無視で1リーグ制へ向けて強引に突き進む一部の経営陣。その中心にいる読売のドン・ナベツネさんの存在。雑誌では「巨人の選手も、たいへんなんです」や「巨人ファンの憂鬱」といった特集が組まれる異常事態。間違いなく、この頃の巨人は揺らいでいた。

【“史上最強打線”の驚異的な破壊力も…】

 先日までスポーツ報知で堀内恒夫の『今でも悪太郎』という短期集中連載が掲載されていた。かなり読み応えがある力が入った企画で、監督時代の秘策「キャッチャー阿部慎之助を3塁コンバート」構想とか、浅草観光が話題になったダン・ミセリは「2軍に落とせない契約だった」とか当時のエピソードを披露。今なら監督時代も冗談交じりに話せる。あれからもう10年以上が経過したんだなとしみじみ思った。

 堀内監督の誕生は唐突だった。03年9月に“読売グループ内の人事異動”なんて名目で前年の日本一監督・原辰徳がわずか2年で退任。これにより、堀内体制は巨人ファンもしくは原ファンの反感を買った状況での船出となってしまった。正直、フロントの大きなミステイクだ。いわばマイナスからのスタート。「投手を中心とした守りの野球を目指す」という堀内監督の言葉とは裏腹に本塁打王経験者と各チームの元4番が並ぶ超重量打線は、04年にチーム本塁打259本の日本記録を樹立。そのあまりの破壊力に長嶋茂雄は「史上最強打線」と名付けたが、同時に肝心の投手陣がチーム防御率4.50と投壊して3位キープがやっと。翌05年は球団史上初の80敗を喫すると5位に沈み、たった2シーズンで堀内政権は終わりを告げた。

 それにしても04年の259発メンバーは凄い。打線の中心はタフィ・ローズと小久保裕紀の移籍組。ローズは45本塁打でホームラン王を獲得。小久保も41本塁打で巨人の右打者として初めて40本に到達した。生え抜きでは当時29歳の高橋由伸と25歳の阿部慎之助が3割、30本塁打をクリア。さらにヤクルトで本塁打王2回、打点王1回に輝いたペタジーニが下位打線で29本塁打。1番仁志敏久も28本塁打。さらに2番清水隆行、8番二岡智宏がいる切れ目のないオーダーだった。これに加えて、ベンチには清原和博や江藤智といったスラッガーが控えているわけだ。誰か今の貧打に悩む巨人打線に欲しい…と言いたくもなる豪華メンツ。長嶋巨人時代から続いた、バランス度外視でひたすらビッグネームを掻き集める大型補強のピークと限界がこの年だったように思う。球史に残る259本塁打と90年代からミスターが追い求めた理想が現実になった。でも、巨人は勝てなかった。

【堀内監督が巨人に残したもの】

 今思えば、巨人のターニングポイントはやはり「松井秀喜の流出」となったのは疑いようのないところだ。02年に50本塁打を放った松井がオフにヤンキース移籍ではなく巨人残留を選んでいたら、その後は不動の4番として君臨し続け、恐らく通算600本塁打以上は放っただろう(現実は日米通算507本)。よく「松井がいなくなってから巨人戦を見なくなった」という元ファンの話を聞くが、仮に背番号55が残っていれば、テレビの巨人戦地上波中継はあそこまで一気に激減しただろうか? 今頃、松井が巨人監督を務め、由伸は代打の切り札としてまだ現役選手でプレーしていたかもしれない。松井監督が告げる「代打由伸」。東京ドームは爆発的に盛り上がるはずだ。スター不在と言われる現在のチームには、この手の興行としての目玉が決定的に足りていない。

 そんな球史ifもしも…の妄想もしたくなる堀内政権時代の暗黒感。ただ、松井が去り、原も追われた状態で監督を引き受けざるをえなかった堀内恒夫も不運だったが、何も残さなかったわけじゃない。仁志は「堀内さんがもう一回仁志を1番で使うと言ってくださって、まったく自信がなかったのに、もう一度やる気を起こさせてもらえたのは凄く嬉しかったですね」と振り返り、当時伸び悩んでいたある若手投手は「今から思えば本当に使えないピッチャーだったんですけど、当時の堀内監督がどんなにダメでも辛抱強くというか、我慢していただいたというか。ほぼ1シーズン1軍にいさせていただいて、僕はこの経験があるからこそ、変われたと思います」と感謝の言葉を残している。オレはいなくなるが、これからの巨人を任せたぞ。堀内監督はそんな己の意志を託すかのように05年26試合で4勝9敗、防御率5.04の23歳サウスポーを先発投手として起用し続けたわけだ。

 その若手とは、のちにエースとなる内海哲也である。



(参考資料)
『ジャイアンツ80年史 PART4』(ベースボール・マガジン社)
Number 611号(文藝春秋)
スポルティーバ2004年11月号(集英社)
『プロ野球偉人伝 2002→2005編』(ベースボール・マガジン社)

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