【恩師・長嶋監督と再会したプロ18年目の背番号6】
「いやあ、篠塚くん。元気そうじゃないか、どう、ロクマクの方の加減は?」
1975年秋、まさかのドラフト1位指名に戸惑う18歳の少年は、“神様”からの挨拶に頭は真っ白になっていた。前年夏に銚子商業の「4番サード」として甲子園優勝に貢献するも、直後に湿性助膜炎と診断。完治までの約半年間は激しい運動は医師から禁じられており、チームに復帰した最後の夏の県大会も準決勝で敗れ甲子園出場はならなかった。176cm、68kgという華奢な身体だったこともあり、まずは社会人野球で鍛えてから…と思ったら、いきなり巨人からのドラ1指名だ。
篠塚和典は、10代の少年らしく喜びと不安の狭間で揺れているところに長嶋茂雄監督が訪ねて来たときの衝撃を、『地獄の伊東キャンプ 一九七九年の伝導師たち』(鈴木利宗/大修館書店)の中で自ら語っている。
「目が、長嶋さんの目が緑、いやグリーンだったんです。エメラルド・グリーン!その瞳に吸い込まれるような印象を覚えていますね」
グ、グリーンってマジすか……と突っ込みたくもなるが、なにせ篠塚少年にとって同郷の国民的スーパースターの存在は神に等しい。その「1年前の甲子園から君に目をつけていた」という熱烈ラブコールに落ち、次代の巨人の星としてプロ生活のスタートを切るわけだ。いつか長嶋監督を胴上げしたい。だが、プロ4年目の秋に伝説の伊東キャンプで徹底的に鍛えられ、さあこれからという時にミスターは解任されてしまう。
篠塚が規定打席に到達し打率.357をマークしたのは、藤田新監督1年目の81年シーズンのことだ。華麗な流し打ちやジャンピングスローを80年代の野球少年たちは校庭でモノマネしまくり、背番号6のスマートなイメージはカクテル光線に照らされる「TOKYO」ユニフォームがよく似合った。篠塚は球界を代表する二塁手として、84年と87年に二度の首位打者を獲得するが、30歳を過ぎ、90年以降は持病の腰痛が悪化し出番も激減。打率も2割台中盤に落ち込みそろそろ篠塚も……と囁かれ始めたその時、あの男が12年ぶりに巨人監督復帰する。憧れの長嶋茂雄が戻ってきたのである。
とは言っても、すでにチームの話題の中心は高卒ドラ1ルーキー松井秀喜。それまでチームを支えた4番原辰徳からの主砲世代交代が急務だった。そんな中、93年シーズンの篠塚は打席数は少ないながらも208打数70安打で打率.337を記録している。恩師ミスター復帰で、昭和の打撃職人が平成球界で最後の輝きを見せた時期だ。
【93年6月9日、驚異の新人投手・伊藤智仁との対決】
篠塚が死にたいくらいに憧れた巨人軍。毎晩地上波ゴールデンタイムで見るプロ野球。その風景は今となってはノスタルジーすら感じさせるが、1970年生まれのあの投手にとっても同じ事だった。
「昔から巨人が好きで原ファンです。原さんと対戦するときはミーハー的な気分で『原だ!』と思ってましたね」
『マウンドに散った天才投手』(松永多佳倫/河出書房新社)の中で、伊藤智仁はそうカミングアウトしている。バルセロナ五輪で日本代表の銀メダルに貢献した、92年ヤクルトのドラフト1位右腕。1年目の93年は4月下旬に1軍昇格すると、150キロ前後の直球とプロ野球史上最高と称された高速スライダーを武器に14試合に投げ、7勝2敗、防御率0.91。その内容は凄まじく4完封、奪三振率10・40という驚異的な数字を残す。しかし、7月4日の登板を最後に右肘を痛め登録抹消。にもかかわらず高卒ルーキーで二桁本塁打を記録したゴジラ松井を抑え93年新人王に輝いていることからも、伊藤が残したインパクトの大きさが分かる。
そんなスーパールーキー伊藤が初めて巨人戦に登板したのが93年6月9日、石川県立野球場での一戦だ。この試合の伊藤は序盤から三振の山を築き、8回終了時までに15奪三振。両チーム無得点で迎えた9回裏一死のシーンで、吉原孝介から三振を奪いセ・リーグタイ記録の16奪三振に達する。そして、二死走者なしの場面でプロ18年目のベテラン篠塚を迎えるわけだ。
【22歳ルーキー右腕と35歳打撃職人の駆け引き】
「伊藤智仁、見事に達成しました。16個目の三振はキャッチャーの吉原から。ついにやりました、伊藤!」
当時の映像を見返すと、テンポ良く涼しい顔で三振を積み重ねる背番号20の新人投手の姿が確認できる。中学生だった自分も風呂上がりにテレビで見ていたが、「なんなんだ、このとんでもない投手は……」と圧倒されていた。恐らく、多くの巨人ファン、いや巨人ベンチも似たような思いだったのではないだろうか。凄いとは聞いていたが、まさかここまで……という驚き。新しい才能と出会ってしまったわけの分からない高揚感。松坂大輔や上原浩治のルーキー時代と同じく、22歳の伊藤には相手チームのファンすら惹き付ける輝きがあった。
9回裏二死走者なし、果たしてセ新記録なるか? 注目が集まる中、左打席に背番号6が入る。例によって80年代の野球少年が無意味に真似をした尻ポケットに帽子をいれる独特の篠塚スタイルが姿が懐かしい。
「さあ、次の17個目が日本タイ記録となります」
なんつって視聴者を煽る実況アナ、と思ったら篠塚が打席を外す。しかも二度だ。ここでテンポ良く投げていた伊藤のリズムが崩れる。さらに前述の『マウンドに散った天才投手』によると、篠塚は事前にブルペンで自軍のクローザー石毛博史のスライダーで目慣らしをしていたという。飛ぶ鳥を落とす勢いの新人投手に対して、プロ18年目の打撃職人が仕掛けた駆け引きの数々。そして、この日の150球目。仕切り直しの不用意な内角高め138キロの初球を篠塚は思い切り叩いた。
「打った! ライトへ! ライトへ! ぐーっと伸びていった! 伸びていった! 篠塚! サヨナラホームラン!」
打球の行方を確認して、マウンドに両膝から崩れ落ちる伊藤。ホームベース付近で篠塚を出迎える歓喜の巨人ナインを横目にキャッチャー古田敦也が声を掛け、三塁側ベンチに戻る背番号20は、若者らしくグラブを投げつけ、壁に蹴りを入れる。149球で圧倒し、最後の1球に泣いたルーキー。助っ人選手のジャック・ハウエルがベンチ内で「おまえはよくやったよ。次があるさ」といわんばかりに伊藤の尻をポーンと叩く。実況はなおも続く。
「平成5年6月9日、ロイヤルウエディングの日。見事なロイヤルウエディングホームラン。1対0。ジャイアンツ、サヨナラ勝ち!」
そう、この日は皇太子さま・雅子さまご成婚で臨時の国民の祝日となり、日本中が祝福ムードに溢れていた。そんな1993年の歴史的な1日に、ひとりのルーキーが16奪三振の快投を披露し、ベテラン打者がそれを止めるサヨナラアーチを放ったのだ。
これぞ、平成の名勝負。現在47歳となり、独立リーグ・ルートインBCリーグの富山GRNサンダーバーズで指揮を執る伊藤智仁監督は、6月2日のホーム・信濃戦で60歳になった篠塚を招き1打席対決を行う。
気が付けば、あれから25年が経ったのである。