今自分が言葉を仕事にしているのは、あの日があったから

今の私の仕事は、言葉を道具にして思いを表現することだ。しかし、言葉なんかじゃ軽すぎて、とても表現できないと思うことが最近よくある。

 それでは仕事をしていないのと同じなのはよくわかっている。誰にも伝えやすくするための道具が言葉。ようするに、自分の思いを誰にも伝えたくないと思っているのだ。自分の思いは、自分だけのもの。誰かと共有したいとも思っていない。だから言葉なんかにしたくない。それでは仕事にならない。

 2002年、阪神監督だった当時、星野さんのホームページで、ファンを招いて「茶話会」をするという企画があった。虎番記者たちを集めて飲み物を用意して情報発信する「茶話会」が星野監督の名物になっていたが、それをファンともやろうというものだった。私は抽選に当たって、今はもうない赤坂プリンスに出かけていって、そこで星野さんと会話を交わしたことがある。

 女性や年配の方が多い中、いかにも仕事中というスーツ姿は目立っていたため、「おい、仕事はどうした?」と声を掛けられた。「ちょっと長めの昼休みをいただいています。自主的に」と答えると、「おいおい、大丈夫か」と苦笑した星野さん。男たる者、仕事に夢中になれよと言われたような気がした。

 私がブログを始めたのは2003年の12月、暮れも押し詰まったころだった。久しぶりの優勝、その余韻にひたっていたオフ、ぼーっとしていたとき、星野仙一監督の仕事ぶりに思いをはせた。自分の持っている情熱とエネルギーをすべて注ぎ込んでチームを強くした。多忙きわまりない毎日の中、勝った日も負けた日も毎日自身のホームページに自分の言葉を発した。あれで指揮官の気持ちはチームだけでなく、ファンも共有できた。

 それを思ったとき、自分も何かをしなくてはいけないと思った。あの忙しい星野さんでも毎日時間を削り出して、自分の言葉を発して人々を動かした。星野さんに比べれば、どう考えても自分には自由になる時間がある。

 それまでもホームページ作りには興味があり、いろいろと試してきたものの、自分にとって大本命である阪神タイガースについて語ることは避けてきた。生来の怠け者で、なにをやっても長続きしない自分が、中途半端に阪神ネタを始めて、すぐに飽きてしまうのが怖かった。

 あの日、星野さんのことを考えて、何かを始めたいと思った。あの忙しい星野さんにできるのだから、自分にもできると思った。大好きなことをやるからには、本気になってやりたいと思った。

 今思うと、今自分が言葉を仕事にしているのは、あの日があったからだ。

 くすぶっていたチームが着火する瞬間を見た2002年。大きな風を巻き起こし燃え上がった2003年。その思い出を語る言葉はまだ出てこないが、恩人への感謝は尽きることがない。

 楽天で念願の日本一をとった。野球殿堂入りし、その大きな披露宴をやった。ニッカンの連載取材でその一生を語った。まるでホッと落ちついて、旅だったようにも見える。

 慎んで故人の冥福をお祈りいたします。


鳴尾浜トラオ