キプチョゲとファラーのスペシャルなキャリア

世界中から熱視線を浴びる同大会には、オリンピックや世界選手権に匹敵するほどハイレベルの選手たちが出場する。今回、最大の注目は男子マラソン世界記録保持者であるエリウド・キプチョゲ(ケニア)と同欧州記録保持者のモハメド・ファラー(英国)による〝最速対決〟だ。

まずはふたりの特別すぎるキャリアは紹介したい。キプチョゲは18歳でパリ世界選手権の5000mで金メダルを獲得するなどトラックで活躍。マラソンに転向すると、過去に類を見ないほどの快進撃を続けている。マラソン戦績は11戦10勝で、昨年9月のベルリンでは2時間1分39秒の世界記録を樹立した。負けたのはキャリア2戦目のベルリン(13年/2時間4分05秒で2位)のみ。ワーストタイムは圧勝したリオ五輪の2時間8分44秒という信じられないほどの強さを誇る。

一方のファラーもキャリアでは負けていない。自慢のキック力を武器に、オリンピックで2大会連続(ロンドン五輪、リオ五輪)の長距離2冠を飾るなど、世界大会のトラック種目(5000m、1万m)で10個の金メダルを奪ってきた。初マラソンとなった2014年のロンドンは2時間8分21秒の8位に終わったが、昨年からマラソンに本格参戦。大迫傑(ナイキ・オレゴン・プロジェクト)が2時間5分50秒の日本記録を樹立した10月のシカゴを2時間5分11秒の欧州記録で制している。

2人の異なる部分と共通な部分

ふたりとも偉大なアスリートに変わりはないが、その印象はかなり異なる。哲学者や僧侶のようなオーラを持つキプチョゲに対して、ファラーはいつも明るく、ユーモアもある。ただ共通しているのは、マラソン前はともにストイックな期間を過ごしていることだ。

ケニアの英雄で金も名誉も手に入れたはずのキプチョゲだが、休日に自宅で妻や子供たちと過ごす以外はトレーニングキャンプで多くの選手たちと共同生活を送っている。マラソンに向けては4か月かけて準備をするという。朝は5時45分に起床して、30分ほどの準備でトレーニングに向かう。朝にメインの練習を行い、夕方にも軽いメニューをこなす。そして、21時に就寝する。食事は質素で、アルコールはとらない。キャンプでは、ボスともいえる存在なのにトイレ掃除も自らこなす。そんな日常を繰り返している。

以前、彼を取材したとき、なぜこれだけの結果を残せるのか? という質問をすると、「自分で律して、きっちりとした生活を送る。そして良いトレーニングができているからだと思います」という答えが返ってきた。インテリジェンスを感じさせる物静かな男は、レースになると、勇敢で力強さあふれるランナーに変身する。

世界記録更新の期待が高まる

大会4日前の記者会見に出席したキプチョゲとファラーは、テレビ局の要望で、テムズ川のほとりに立ち、ともにファイティングポーズでカメラに収まった。翌日、ファラーはロンドンのナイキタウンでイベントに参加。ファンの前でレースに向けて意気込みを語っている。

「マラソンに転向して驚いたことはいろいろありますよ。トラックとは大きく異なり、マラソンは年に2回ほどしか走りません。だからといって、休みが多いわけではないんです。レース前は家族と離れて、みっちりトレーニングをしています。ときには家族がいなくて寂しいなと思うこともありますが、ベストを達成するにはやらなければいけない。

トレーニングもトラックと全然違いますね。トラックは具体的なタイムを追いかけて練習しますが、マラソンの場合はゆっくりと長い距離を走る。だから私にとってはハードワークなんです。ペースですか? 1マイル6分(キロ3分45秒)という感じかな。

マラソンはトラックのレースで勝つこととも違います。常にやり続けないといけない。今回はエチオピアで3か月の高地トレーニングをやってきました。ケニア人は強いですからね。特にエリウドに勝ちたいなという思いで取り組んできました。ロンドンマラソンは自分にとって特別です。女子はポーラ・ラドクリフ、男子はエリウド・キプチョゲが世界記録を樹立している。自分もそこに名前を連ねたい」

ロンドンで圧倒的人気を誇るファラー

限定70名で行われたトークショーは笑顔と熱気にあふれていた。日本ではさほど知られていないかもしれないが、ファラーの人気はすこぶる高い。ロンドンの街ではファンに囲まれてしまうため、顔を隠す必要があるくらいだ。

ふたりは昨年のロンドンで直接対決している。キプチョゲが2時間4分17秒でマラソン8連勝を飾り、ファラーは2時間6分21秒(3位)と2分以上の差をつけられた。ただし、前回は5kmが13分48秒、10kmが28分19秒。中間地点を1時間1分0秒で通過するという異次元のレースだった。しかも気温が23.2度まで上昇して、ともに終盤はペースダウンしている。ファラーは自分の給水ボトルを2度も取り損ねた。イベントでは、「今回はしっかりと給水ボトルをつかみたい」と言って会場を笑わせた。

ナイキの新厚底シューズの性能

近年のマラソン界はナイキの厚底シューズ(ズーム ヴェイパーフライ 4%など)が猛威を振るっている。2017年と2018年のワールドマラソンメジャーズでは、トップ3の男女合計72人のうち、ナイキの厚底シューズを着用していたのは42人もいた。キプチョゲが一昨年5月にBREAKING2という非公式レースで当時の世界記録(2時間2分57秒)を大きく上回る2時間0分25秒で42.195kmを走破したときにも厚底を履いていた。

キプチョゲとファラーはナイキの契約選手。今回は7月に一般発売される「ズームエックス ヴェイパーフライ ネクスト%」という新シューズで臨む。ふたりの意見も盛り込まれており、厚底がさらに〝厚底〟になったと早くも話題になっている。

詳しく説明すると、ミッドソールはフロント部分が4㎜、ヒール部分が1㎜厚くなった。ミッドソール全体でボリュームが15%UP。地面を蹴り出す爪先部分を厚くしたことで、エネルギーリターンもUPするという。ソール部分は重くなったが、アッパー部分を独自素材で軽量化したため、シューズ全体の重さは変わらない。さらに通気性も良くなったという。

ロンドンマラソンでは男女含めて、20~25名ほどがナイキの新シューズで出走する予定。グリーン色のシューズがテレビ画面でまぶしく見えるだろう。34歳のキプチョゲと36歳のファラー。熟年期を迎えているふたりの怪物が新シューズを履いて、ロンドンの街にどんな〝魔法〟をかけるのか。


酒井政人

元箱根駅伝ランナーのスポーツライター。国内外の陸上競技・ランニングを幅広く執筆中。著書に『箱根駅伝ノート』『新・箱根駅伝 5区短縮で変わる勢力図』『東京五輪マラソンで日本がメダルを取るために必要なこと』など。