日本国内最高記録を大きく塗り替える

 終盤は向かい風もあり、思うようにペースが上がらなかったが、史上最強のランナーはサードベストの2時間2分40秒で圧勝。2017年にウィルソン・キプサング(ケニア)がマークした2時間3分58秒の大会記録&日本国内最高記録を大きく塗り替えた。

「札幌で東京五輪の金メダルを取りましたが、東京を走りたかった。記者会見時にストロングな走りをしたいというお話をしたんですけど、それがどういう意味だったか分かっていただけたのではないでしょうか。大会記録を更新できてハッピーです」

 2018年のベルリンで2時間1分39秒の世界記録を樹立して、2019年には非公認ながら42.195kmを1時間59分40秒で走破したキプチョゲ。36歳で東京五輪を完勝すると、今回の東京でも圧倒的な強さを見せつけた。37歳になっても進化が止まらない印象だ。

「長く走り続けるためにはまずプロフェッショナルであること。そのスポーツを愛すこと。そして、どこから来て、どこに行くのか。それを自覚して、自分を律して毎日走る。さらにインスピレーションを与え続けることが大切だと思います」

 そう話すキプチョゲは2024年パリ五輪で前人未踏の3連覇を目指すという。マラソン界の神に触れた日本人選手たちは大きな刺激を受けたはずだ。そのなかでも〝日本のキプチョゲ〟になれる可能性を秘めているのが佐藤悠基(SGホールディングス)だろう。

「キプチョゲとはトラックとマラソンで何回か走らせてもらう機会がありました。毎回思うんですけど、年齢を重ねるたびに強さがどんどん増している。僕も年齢が上の方ですけど、年齢を重ねるにつれて進化していきたい」

トラックや駅伝で伝説的なキャリアを積んだ男

 佐藤はトラックと駅伝で伝説的なキャリアを積んできた。3000mで中学記録、10000mで高校記録、5000mでU20日本記録を樹立。日本選手権10000mでは4連覇(11~14年)を成し遂げた。箱根駅伝で3年連続の区間新を打ち立てると、ニューイヤー駅伝でも大活躍。エース区間となる最長4区で3度の区間賞を獲得している。しかも34歳で迎えた2021年大会は区間記録に4秒差と迫り、9年ぶりの区間賞を奪った。

 トラックや駅伝では「天才」と呼ばれるほど飛び抜けた能力を発揮してきたが、マラソンはうまくいっていない。従来の自己ベストは2018年の東京でマークした2時間8分58秒。トラックや駅伝の活躍を考えると明らかに物足りないタイムだった。

 しかし、今回の東京マラソン2021で佐藤は〝新たな一歩〟を踏み出している。1km2分57秒ペースの第2集団のなかで静かにレースを進行。中間点を1時間2分39秒で通過する。ペースメーカーが離脱した25km以降は日本歴代5位の2時間6分26秒を持つ土方英和(Honda)についていくかたちで走り、自己ベストの2時間8分17秒をマークした。

「今回は終始うまくハマらなかったレースだったかなと思います。そのなかでも自分なりにレースを修正して、最低限粘りました。少しは成長しているのかなと思っています」

 不本意なレースになりながらも、35歳で自己ベストをマークした佐藤。彼の姿勢や取り組みは多くの選手の〝見本〟になっている。今回は大学の後輩でもあるチームメイトの湯澤舜が2時間7分31秒で8位に入った。

「僕が取り組んでいることに、他の選手が少しでも刺激を受けて、僕以上の結果を残してもらう。そういう姿勢が若い選手に芽生えてくれるといいなと思っていますし、僕自身も後輩たちに負けないようにやっていきたい」

 近年はシューズの進化もあり、「ベテラン」と呼ばれるような選手たちが存在感を発揮している。2月27日の大阪マラソンでは37歳の岡本直己(中国電力)が自己ベストの2時間8分04秒、同じく37歳の今井正人(トヨタ自動車九州)がセカンドベストの2時間8分12秒をマーク。それから佐藤と同学年の川内優輝(あいおいニッセイ同和損保)も2時間8分49秒で走破している(自己ベストは21年2月のびわ湖でマークした2時間7分27秒)。

 マラソンのタイムは上記の選手が上だが、佐藤の凄いところは日本トップクラスのスピードを維持していることだ。2020年12月の日本選手権10000mで7位(27分41秒84)、昨年5月の日本選手権5000mでも6位(13分38秒40)に入っている。

35歳で自己ベスト、まだまだ進化する天才から目が離せない

 マラソンでは一度も〝会心のレース〟ができていないが、ハマれば2時間4~6分台で走ってもおかしくないだろう。今後の目標については、「今日よりもいいタイムでしっかり走れればいいと思っています」と佐藤は多くを語らなかった。しかし、彼は〝大きな野望〟を抱いている。

 昨年3月に取材したときには、「びわ湖で日本記録(2時間4分56秒)が出ましたが、今やろうとしていることがうまくいけば、更新可能な記録だと思います。2時間4分30秒くらいまでは行けるんじゃないかなと思っているので、あとはどこまで自分がやれるのか。ハードな練習に慣れる必要があるので時間はかかると思うんですけど、そのレベルを目指していきたい」と話していた。

 30代後半に入った天才ランナーが苦手にしていたマラソンでどんどんタイムを短縮していけば、日本の長距離界はさらに進化するだろう。


酒井政人

元箱根駅伝ランナーのスポーツライター。国内外の陸上競技・ランニングを幅広く執筆中。著書に『箱根駅伝ノート』『新・箱根駅伝 5区短縮で変わる勢力図』『東京五輪マラソンで日本がメダルを取るために必要なこと』など。