「日本を出なければ…」 遠征先から父へ手紙で直訴
――羽根田選手といえば、スロバキアへのカヌー留学が有名です。この決断はどういうところから生まれたのでしょう?
「決断した大きなきっかけは高校3年生の時。自分のジュニアとしての最後の国際大会ですね。スロベニアで行われた大会で6位に入賞しましたが、ヨーロッパの選手を見て『このままではどんどん差が開いてしまう』という危機感を抱きました。一方で、自分なりに手応えも感じることができた。これからシニアとして世界で戦っていくためにはこの差を埋めないと絶対に戦っていけないという気持ちと、環境の差を埋めれば戦えるという気持ちが、高校卒業後に海外へという道を選んだ大きな理由です」
――カヌー競技を続けるなら海外しかないと?
「とにかく『日本を出なければいけない』という思いが強くありました。ヨーロッパにはカヌー競技が盛んで強い国がたくさんあり、強いところならどこでもいいというのがその時の思いでした。実は、その大会の直後、現地から父親に手紙を書いたんです。高校を卒業したらヨーロッパに行きたい。自分の思いとその理由、目標を書いて送りました」
――お父さんの反応は?
「帰国してからあらためて『手紙送ったんだけど』と、高校卒業後の進路について話しました。父もカヌーをやっていましたし、はじめから自分をカヌーの選手にするつもりでいたので反対はなかったですね。その話し合いの中で『スロバキア』という具体的な国の名前が挙がりました」
――なぜスロバキアだったんでしょうか?
「はじめは日本から出なければという一心で、強豪国のどこかというイメージでした。フランス、ドイツ、イギリスも強いし、ポーランド、チェコも。環境や自分のスタイルを考えていったときに、一番合っていると思ったのがスロバキアでした。そこからはいろいろな知り合いを伝って、自分が師事したいコーチのメールアドレスをなんとか手に入れて、『スロバキアに行きたい、練習する場所はないか?』とメールでやりとりして。何のつながりもなかったので、とにかく知り合いに聞いて、やってみるしかありませんでした」
「当たり前」が日本とまったく違ったスロバキア
――10代にして単身ヨーロッパへ渡ったわけですが、スロバキアに行ってみてまずどんなことを感じましたか?
「あらためて思ったのは『これじゃ勝てないよな』ということです。日本にはない人工のコースが当たり前にあって、大会で使われるようなコースでいつも練習ができる。しかも一緒に練習しているのが世界チャンピオンだったりする。レベルの高い選手が日常的に隣で練習をしている環境でやれば当然、意識も変わってきますよね。とにかく“当たり前”のレベルが違いました。スロバキアでは、日本でいう少年野球、サッカークラブのような小さなクラブチームでカヌーを始めて、そこで芽が出た選手は国がサポートするチームに移っていく。カヌーを始める環境も、そこから一流選手になる道筋も、日本にはないものがスロバキアにはありました」
――留学後、苦労されたことは?
「一番は言葉ですね。スロバキアはスロバキア語が公用語(一部ハンガリー語)で、英語は通じないことが多い。海外合宿や国際大会の経験で英語はなんとか分かるというレベルでしたが、コーチはスロバキア語が中心。せっかくスロバキアで良いコーチについているはずなのに、コミュニケーションが取れない。はじめのうちは、このことにものすごいもったいなさを感じました。現地の選手にはスロバキア語でいろいろ指導しているのに、自分には英語で一言、二言しか教えてくれない。だったら自分がスロバキア語を覚えるしかないと、必死で勉強しました」
――どれくらいで話せるようになったんですか?
「英語に頼らないで話せるようになったのは2年くらいですかね。言葉を覚えてからはコーチとの関係も変わりましたし、現地でのコミュニケーション自体が大きく変わりました。言語を習得したからこそスロバキアの大学に進むという進路も開けました」
――コミュニケーションでいうと、日本とヨーロッパのいわゆる「コミュニケーションスキル」はまったく別物だと思うのですが、そのあたりのギャップはありましたか?
「15,6才の子でも自分の考えをしっかり持っていて、自分の意見を声に出して言えるというのはすごく感じました。裏を返せば少し生意気なところもあるんですが、良い悪いは別にしてそういう違いはあるのかなと思います」
――羽根田選手自身は割とすんなりそういうコミュニケーションの中に入れたのですか?
「それまで自分がカヌーをやってきた環境が、指導者に教わるという環境ではなかったので、人と違う部分があるかしれません。それこそ中学校までは兄と二人でトレーニングをしていましたし、高校からは先輩からいろいろ聞いて練習メニューを自分で考えていました。集団、団体の中にいればいいという環境ではなかったので、自分で考えることが自然に身に付いていたかもしれません」
プレッシャーを奮起材料に、冷静にベストを尽くす
――2008年の北京オリンピックでは予選14位。2012年のロンドンオリンピックでは7位入賞、そして2016年、リオデジャネイロオリンピックで銅メダルを獲得と、傍から見れば順調なステップアップに見えますが、ご自身が描いていたキャリアと比較するとこれまでの歩みはいかがでしょうか?
「スロバキアに渡ったばかりの時に考えていた予定では、もうちょっとテンポよく成績が伸びるはずだったんですけど……。後ろ倒しになってしまったなというのが正直なところです。でもそれは、自分がまだ若くて未熟で、自分の実力と相手の実力をちゃんと分かっていなかったのかもしれません。だから根拠なく自分のサクセスストーリーをつくり上げていたのかなとは思います」
――自分が描いた計画通りに事が進まないとき、焦りはありませんでしたか?
「それはもちろんありました。リオの前は、20代後半でそろそろ自分の競技人生の終わりが見えてくるころでした。カヌー競技は続けようと思えばまだまだ続けられるけど、成長できるのには限界がありますからね。だからリオの前には、『あれ? そろそろ現役引退が近づいているのに、自分が本当に求めている、周りが期待している成績を出せていない。もしかして俺のキャリアはこのまま終わってしまうのか?』というプレッシャーはありました」
――成績が出ていないわけではないが、望んだような結果には届いていない。それがプレッシャーになっていた?
「でもプレッシャーが悪いことかというとそんなことはなくて、もう時間がないぞというプレッシャーを自分にかけながらも、そこは焦らずに冷静にベストを尽くす。バランスですね」
――カヌーは水の流れ、自然を相手にするスポーツでもあります。自分でコントロールできないこともたくさんあると思うのですが、プレッシャーや環境、状況にどう対処していますか?
「特に大会の時は自分なりのイメージをしっかりつくってから臨むようにしています。でも、イメージ通りにいくことなんてありません。レースになればいろんな予期せぬ流れが出てくるし、ミスも出てくる。それをいかにリカバリーするか。カヌーは一言でいえば、リカバリーの競技です。起きたことに対して、いかに臨機応変に対応できるか。自分の予期していなかった状況で都度、ベストな対処、ベストな選択肢を選び取ってゴールにたどり着く。そのためには練習のうちからそういうことに対応できる技術の幅を身に付ける必要があります。自分の場合は、イメージをつくるときに、まず失敗の可能性から探ります。最初から自分のベストな漕ぎをイメージするよりも、ここではこういう失敗が起こり得るという想定をして、その準備をしておきます」
自分で切り拓いた道が、目標を達成するための道になっていった
――羽根田選手は普段から「水をよく知り、戦わない」とおっしゃっています。
「自分のスタイルというか、目指している理想のカヌー、スラロームとはこういうものだっていうのがずっとあります。いかに自分の力を使わず、技術を駆使して、水の流れを使って、一番早くゴールにたどり着くか。これはずっと昔から変わらない理想のカヌーです。いま思えば、スロバキアはまさにそれを体現しているような国ですね。体力や腕力ではなく、技術で世界トップクラスの選手を多く輩出しています」
――スロバキアに行ったのも必然だったというわけですね。理想のカヌーを追い求める過程なのかもしれませんが、2020年はいよいよ東京でオリンピックが開催されます。
「まずは自分が出場して、良い成績を残す。これは言うまでもないことですよね。もう一つ、日本に今までなかった人工コースができて、オリンピックという最高の舞台でたくさんの人で見てもらえることは、自分にとっても初めての経験ですし、あらためてそれが大きなモチベーションになっています。そこで自分が活躍することができれば、またさらにカヌーに触れてもらう、知ってもらうきっかけになると思います」
――羽根田選手の中で、理想のカヌーを追究して結果を出すことと、競技の普及、認知度のアップはどんなバランスで考えているのでしょうか?
「それはもう目標としては“ニコイチ”ですよね。自分が結果を出すことでカヌーを知ってもらう。これが自分の夢でもあるし、カヌーをやっているみんなにとっての夢だったので。実際リオで結果を出したことで競技を知ってもらうきっかけになったように、それを形にするのはやっぱりオリンピックのメダルしかありません。カヌー競技が認知されてきていることは肌で感じていますし、東京でさらに多くの人にカヌーに触れてもらって、日本にも人工コースが一つでも増えてくれればいいなと思います」
<了>
[PROFILE]
羽根田卓也(はねだ・たくや)
1987年生まれ、愛知県豊田市出身。7~9歳で器械体操を、9歳から父と兄の影響でカヌーを始める。高校卒業後、単身、強豪国スロバキアへ渡る。2008年北京大会でオリンピック初出場。2012年ロンドン大会で7位入賞。2016年リオデジャネイロ大会で、カヌースラローム競技でアジア初となる銅メダルを獲得。2018年アジア大会で金メダル、2連覇を達成した。ミキハウス所属。東京2020大会でさらなるメダル獲得を目指す。