ヴァルナ国際バレエコンクールで、日本人初の金賞

 1971年に松山バレエ団に入団した森下さんは、74年に初の国際コンクール出場に挑んだ。ブルガリアで開催される「ヴァルナ国際バレエコンクール」である。噂を聞きつけた周囲から「絶対金賞ですね」と期待されるなか、一次予選、二次予選と通過して、日本人初の金賞を受賞した。

「嬉しいというより、これで日本に帰れるとホッとしたのが正直なところで、オリンピック選手の気持ちが良くわかりました。金賞受賞者として一度は世界のいろいろな舞台からお声をかけていただけますが、続けてお声をかけていただけるかどうかは自分次第。幸い、その後もたくさんの舞台出演の機会をいただきました。」

「日本人には、バレエはできない」という日本人の思い込みを払拭し、世界に活躍の場を広げた森下さん、ヴァルナでの金賞受賞後に文化庁在外研究員としてモナコ公国に1年間留学、世界のバレリーナが身体を整えにやってくる“バレエの病院”と評されるマリカ・ベソブラゾヴァに師事した。

「マリカ先生はバレエの基本をとても丁寧に指導してくださり、公演ツアーなどできちんとレッスンできていない時の身体の調整方法も教わりました。ここで今世紀を代表するアーティストであるルドルフ・ヌレエフとも出会います。何を食べたかは覚えていませんが、ヌレエフは食事の時もバレエの話ばかり。ナイフとフォークを使ってバレエのアドバイスをしていただいたのは、今でも素敵な思い出です」

エリザベス女王にあたたかい声をかけていただいて

 1976年、松山バレエ団創立者の松山樹子さんと正夫さんの長男・清水哲太郎さんと結婚。また、同年に森下さんはアメリカンバレエシアターの公演に客演し、世界にデビュー。松山バレエ団に軸足を置いて、海外の舞台に立つ日々が始まった。

 翌年にはヌレエフにパートナーとして選ばれ、ロンドンで「エリザベス戴冠25周年記念公演」で踊った。78年には“バレエの女王”のマーゴ・フォンティンとの世界ツアーに出演する機会も得た。

 1982年にパリ、オペラ座に日本人で初出演、85年にはイギリスとで最も権威ある賞の「ローレンス・オリヴィエ賞」を、これもまた日本人で初めて受賞する。国内外で数多くの賞に輝き、その多くが“最年少”の記録更新で、結婚後も森下さんは世界を駆け巡った。

「南極と北極以外は行ったのではないかと思うぐらい、たくさんの国で公演を務めることができました。どの国もホテルと劇場の楽屋口しか知らず、買い物もほとんどしていません。
 飛行機での長時間移動中もバーレッスンやストレッチなど、できる範囲で工夫して、現地についてすぐに舞台に立てるように身体を整えました。夜に公演がある時は5時間前には食事を済ませ、ベストコンディションで舞台に臨む。その繰り返しです」

1日1食

 当時の森下さんのベストコンディションは、38〜39kg。太らない体質で増減はあまりなく、他のアーティストからは羨ましがられたという。

「朝はコーヒーと、仮に食べてもヨーグルトを少しだけ。お昼は、食べると身体が重くなり、稽古ができなくなるので、チョコレートをつまむ程度。そのかわり、夜はきちんといただきます。
日本にいる時は、招待などで外食する以外はほとんど自宅です。肉料理、魚料理を両方用意して、サラダや和えもの、酢の物、煮物などで3品は作ります。清水とふたり、好きなワインやビールを飲みながら2時間ぐらいかけてゆっくり過ごして。大切な時間でしたね」

 清水さんのお気に入りは、トマト風味の煮込みスープ。セロリと牛のテールで出汁を取り、牛肉、ニンジン、玉ねぎ、じゃがいも、トマト、キャベツを1日以上コトコトと煮込んだもの。スープを飲みながらバレエの話を始めると話が止まらず、いつでも4、5杯は飲んでいたという。このスープは風邪や体調が優れない時の清水さんの頼れる活力源になっていった。

 森下さんが日々背負っている期待や責任、プレッシャーから解放される夫婦時間。この安らぎのひと時は、単に「食べる」「栄養を摂る」だけではない充足感を与えてくれる時間だったのかもしれない。

 森下さんはフィジカル面だけでなく、メンタル面もブレがない。「やってきたことが舞台に出るだけ。稽古あるのみ」と、日々新鮮に稽古を重ね、その積み重ねを自信に変えて、緊張やプレッシャーに動じない心を鍛えていった。

 そして、海外の舞台で公演を行う中で、広島出身であることの大きな意味を感じるようになった。

「海外の舞台でともに踊る仲間に私が広島出身であることを伝えると、皆とても驚きました。『ヒロシマ』として多くの方がご存知でした。
 広島は原爆投下というあってはならないことが起こった場所。私が生まれたころ、まだ広島の地は焼野原でした。母がキッチン森下を始めて忙しくなってから、祖母が母にかわって私と妹の世話をしてくれるようになりました。祖母は爆心地近くで被爆、左半身に大きなやけどを負い、亡くなっていると思われてお経まであげられたほどです。でも、平気で銭湯にも行き、くっついた指がうまく動かせなくても、親指一本あれば洗濯ができる、と明るく笑う。一切愚痴を言わず、命に感謝し、前向きに生きる祖母の生き方の強さ、美しさを、年を重ねるほどに強く感じるようになりました。
 バレエ、芸術は人の心を結びつける力がある。広島で生まれた者として、平和への祈りを込めて踊り続けること。それが、私の使命だと思うようになっていったのです」

 そして2001年、舞踊歴50周年の年に、森下さんは松山バレエ団の団長に就任した。

〔森下洋子インタビュー vol. 5〕につづく


森下洋子
1948年、広島県生まれ。3歳でバレエを始め、1971年に松山バレエ団に入団。1974年第12回ヴァルナ国際コンクールに出場し、金賞を受賞。以後、世界各国に活躍の場を広げ、2001年に舞踊歴50年を迎え、松山バレエ団団長に就任。1997年、女性最年少の文化功労者として顕彰される。2002年、芸術院会員に就任。バレエ歴70年を超え、第一線で活躍中。近著に『平和と美の使者として 森下洋子自伝』(中央公論新社)がある。2023年12月2日より松山バレエ団75周年記念公演『くるみ割り人形』開催。詳細は下記HPから。

松山バレエ団

VictorySportsNews編集部