格闘技で飯が食えるか
大学1年から3年までは、とにかく乱取りばかり。相変わらず身体は小さかったですが、痛みへの耐性とか、頑丈さみたいなものはどんどん強化されて、すっかり格闘技愛の塊みたいになっていました。
周りが就職活動を始めたとき、先輩に相談したんです。「空手は下手ですけど、格闘技で食っていきたい」って言ったら、「今度、全女(全日本女子プロレス)のオーディションがあるから、行ってこい」と。
それまで、プロレスは一度も見たことがなかったのですが、「なにか質問されて分からなかったら、とにかく元気よく、豊田真奈美さん! と返しておけば大丈夫だ」と言われたので、「分かりました」と元気よく返事をして、応募しました。
当時、フジテレビが全女と組んで『格闘女神ATHENA』(前身番組が、全女プロレス中継)という深夜番組をやっていたんですね。先輩が言っていたのは、その番組で放映されるオーディションでした。
水着
それで当日、お台場のスタジオに行ったら、あれ、おかしいなと。オーディションの要項に「水着」と書いてあったので、私は普通に三角ビキニの水着を持っていったんですね。そうしたら、私以外は全員、上下がつながったレスリング選手が着るやつなんです。
それで「今から、スパーリングだ」となって、うわぁ、どうしようと思っていたら、履歴書を見た全女の人が「君、空手やっているなら、組手を見せて」と言ってくれて。ちょうど参加者の中に、もうひとり空手をやっていた人がいたので助かりました。
でも、オーディションと言いながら、全員受かったんですね。私も「ビキニ」なんてあだ名を付けられて、テレビに出て。出演した後は、アパートへの電話とか凄かったですけど、べつに有名になりたいわけじゃないから、それよりお腹減ったなとか。あれはオーディションがテレビで流れただけなので、ギャラとかはないんです。
1年後
全女の人は、私が現役の大学生だったことに驚いていました。全日本女子プロレスは全寮制なので、オーディションに受かったら寮に入らなきゃならない。私はそれも知らなくて、とりあえず「大学を卒業してから、寮に入るのでもいいですか」と聞いたら、「いいよ、いいよ。分かりました」と。
オーディションを教えてくれた先輩にも「就職先が決まりました」って報告して、あとは勉強を頑張って、大学を無事に卒業しました。それで、翌年早々に全女に電話したら、「えっ、ほんとに来るの?」って、またびっくりされて。どうやら、テレビに出るのを目的に、冷やかしでオーディションを受けた大学生だと思われていたみたいでした。でも、すぐに本気だと分かってもらえて、4月から入寮しました。
目黒にあった寮は1階にリングと駐車場、2階が「SUN族」という全女が経営するレストランと事務所、3階が松永一家関連の人たちの住居、4階が私たちレスラーの部屋でした。松永一家というのは全女のオーナーの一族で、会長の松永高司さんは「女子プロの父」といわれたぐらいの人です。その息子さんや娘さんたち、親戚の皆さんもレスラーやレフェリーとして全女に関わっていました。
駆け出しの生活
私は「想定外の新人」だったので、本来なら2人部屋の4畳半に入れてもらいました。先にいた2人は2段ベッド、私は布団。全員、練習生です。相撲部屋とかと違って、朝はのんびりでしたね。
毎日8時頃に起きて、そこから1時間半ほどで寮やリングを掃除。終わったら、レストラン「SUN族」の手伝いに入ります。当時、練習生は6人いて、レストランの手伝いで必要なのは3人だったので、誰が入るのかは、毎日じゃんけんで決めていました。昼の手伝いが終わったら、食事です。白いご飯はタダ、おかずは各自で調達が寮の決まりだったので、近所のスーパーで唐揚げとか買って。
練習は、だいたい午後2時からでした。雅叙園(ホテル)の周りの急な坂道をダッシュ。ぐわーって上って、1周ぐるっと戻ってきたら、もう1周。まず走らされて、スクワット、縄跳びして、ひたすら受け身の毎日でした。
練習時間そのものは、毎日4時間前後でしたが、もう、すごいところにあざがボカボカできて、全身が牛みたいな柄になって。 先輩はね、小指から小指まであざが繋がったって言ってましたね。
それでも、体格は変わらなかったですね。せめて60キロにならないとデビューさせられないと言われていたので、頑張って食べましたが、食べても食べても、どんどん痩せていきました。