フロリダでの研鑽と世界を予見させたフォアハンドストローク

 2007年10月に、17歳でプロへ転向した錦織は、2008年2月に、ATPデルレイビーチ大会でツアー初優勝を18歳でやってのけた。同年8月にUSオープンでは初出場ながらベスト16に進出して、実力が本物であることを自ら証明してみせた。

 プロテニスツアーは、ヨーロッパや北米が主戦場であり、日本を含めたアジアからは優れた選手が現れにくい状況であった。

 だが、錦織は、13歳の時に、ジュニア選手の海外テニス留学をサポートする「盛田正明テニス・ファンド」から奨学金を得て、アメリカ・フロリダにあるIMGアカデミーで練習に励んだ。当時錦織は、プロになるためには、この選択しかなかったと気丈にふるまっていたが、引退の際に「正直別に好きでもないアメリカに行って」と実は子供心に葛藤があったことを告白している。

 ジュニア時代から、錦織はフォアハンドストロークが抜群に良かった。スウィングスピードが速く、ラケットヘッドがよく走り、クリアに打ったボールはバウンドしてからよく伸びた。それはプロテニスツアーでも大きな武器なることを予見させ、実際にそうなった。特に、左足を軸にしながらジャンプして豪快に打ち放つフォアハンドストロークは、“エアK”と呼ばれて、彼の代名詞になった。

 ただ、サーブだけ難があった。テークバック時に、ラケットヘッドがうまく落ちず、ボールとのインパクト前後に行うプロネーションという動作も良好ではなかった。錦織のサーブを改良する必要性は常につきまとい、それはプロキャリアの最後まで錦織の課題であり続けた。

日本男子初のトップ10入り。頂点を見た者だけが知る後進への思い

 2014年シーズンからは、ダンテ・ボッティーニコーチに加えて、マイケル・チャンコーチが錦織のツアーコーチとなり、錦織は覚醒していく。力強さが増してショットのクオリティが格段に向上し、フォアハンドストロークだけでなく、バックハンドストロークも武器になっていった。サーブは、サービスエースを量産とまではいかないもののフリーポイントが増えた。また、技術面だけではなく強いメンタルをチャンコーチから叩き込まれて、ロジャー・フェデラーやラファエル・ナダル、ノバク・ジョコビッチ、アンディ・マリーといったトップ選手たちへの憧れを捨てて、リスペクトをしつつも勝ちに行くという強い気持ちを植え付けられた。

「やっぱりマイケルの存在は僕の中では大きくて、彼が一番自分に刺激を与えてくれたし、テニスも変えてくれたし、人間としても成長させてくれた」

 このように振り返った錦織は、2014年シーズンに大きな飛躍を遂げる。まず、同年5月にマスターズ1000・マドリード大会直後に、ATPランキング10位を記録し、日本男子選手として初めて世界のトップ10入りを果たす。

 さらに、同年9月は、テニス4大メジャーであるグランドスラムのUSオープン男子シングルスで、アジア男子選手最高成績となる準優勝を成し遂げた。錦織は、グランドスラムで優勝することを、ずっと目標に掲げていたが、24歳の時に自分の目標に最も近づいた。

 また、2010年代後半に、錦織が牽引するようにして、他の複数の日本男子選手が、世界トップ100を突破してツアーで結果を残すようになった。“錦織効果”とも呼べるもので、日本男子テニス界にかつてないほどの活気がみなぎった。

 ただ、錦織本人も残念がったのは、錦織に匹敵するようなトップ20やトップ10に入ってくる若手選手が育ち現れなかったことだ。

「自分がちょっと悲しいのは、トップ10にいた時になかなか付いてくる選手が、西岡(良仁)君とかいましたけど、ちょっとそれが少なかったという悲しさは正直あります」

けがとの闘い。そして、「人生を共に歩んだ」ユニクロとの15年

 錦織の現役時代は、けがとの戦いでもあった。3回の手術を乗り超えてコートに立ち続けたが、長年彼をサポートし続けたのが、ユニクロだ。錦織は、2011年シーズンからユニクロのウェアを着用しているが、きっかけは、2010年ローランギャロス開催時、パリでの柳井正氏らとの会食だった。当時同席していた、正氏の次男である株式会社ファーストリテイリング取締役 グループ上席執行役員である柳井康治氏は、錦織との15年を振り返りながら彼のキャリアを労った。

「昨日のことのように思い出します。それからご縁があって契約をさせていただいて、15年以上ユニクロの顔として活躍していただいた。われわれも日本から世界に飛び出していこうとしている15年を、錦織圭選手が体現してくださった。日本から世界で戦う姿に、われわれも本当に感動しました」

 新型コロナウィルスのパンデミックやプライベート問題を経て、今も関係が続いている。

「ユニクロは、僕の人生を共に歩んできた。共に一緒に戦ってくれた存在として、15~16年ですかね、これだけ長い間サポートしていただいて、戦って来れたのを嬉しく思います」 (錦織)

錦織と共に歴史を刻んできたユニクロのウェア(提供:ユニクロ)

 プロテニスプレーヤーであれば、現役引退の道は誰もが避けて通れないものであり、36歳の錦織は、母国で開催されるジャパンオープンでその瞬間を迎えた。

「ここまで本当に1本のことに全人生を、いろんなことを跳ね除けて、ここまで努力できたということは、自分でも誇りに思う部分もあります。遠いアメリカまで行って、まぁ、正直別に好きでもないアメリカに行って(苦笑)、テニスのために、このテニス人生のために注いできたというのは、自分ではいい選択はできたなと思います。やっぱりけがが多かったので、そこをどうにかできなかったかなという後悔はたくさんあります。どうにか勝てた、もう1試合勝っていれば、もっと人生変わっていたみたいな試合もたくさんあったので、後悔のある部分は、探せばいっぱい出てきますけど、それでも、よく頑張ったなという思いは強くあります」

 最後の大会で、今まで決して口にすることがなかった後悔を口にした錦織。それは、改めて、錦織引退の事実を突きつけられているようでもあった。だが、それまでイメージすらできなかったワールドテニスのトップの世界を、錦織がリアルに体感させてくれた功績はとてつもなく大きく、いったい錦織を誰が責めることができるのであろうか。

 そして、19年間プロとして向き合ってきたテニスを、錦織は次のように語った。

「良い意味でも悪い意味でもテニスしかやってこなかった中で、いろんな人に出会って、いろんな人と対戦して成長できた部分もすごく多かったです。テニスとは何だったんだろうって考えた時に、自分のめちゃくちゃ長い青春時代をテニスに全部注げたなってすごく思います。これは地球上の全員がたぶんできるわけではないし、こうやって1つのことに自分の人生を注ぎ込めるっていうのは、それは辛いこともあったし、楽しいこともあった中で、それも含めこれに没頭できた時間っていうのは本当に幸せだったなって改めて思います」

アジアのテニス界発展へ

 やはり気になるのは、引退後の錦織の動向なのだが、まだ何も定まっていない。多くの人が望んでいるのは、錦織による説得力が伴う後進の育成だ。

「僕自身が多くのトップ選手を目標にしてきたように、若い世代の選手たちが僕のことを覚えていてくれたり、後に続いてくれたりしたら嬉しいです。そして、アジアのテニス界がさらに発展することを願っています。厳しい状況ではありますが、トップ50やトップ30に入る選手を増やすために、何らかの形で貢献できればと思っています。それが今後の目標になるかもしれません」

 たしかに錦織には才能はあった。だが、ワールドプロテニスツアーは、才能だけで生き残れるほど甘い世界ではない。錦織は表に出さないだけで、とてつもない努力をしていたことを忘れてはならない。決して天才という一言では片づけられないのだ。

引退会見にて19年間のプロ生活を振り返る錦織(提供:ユニクロ)

 錦織が日本テニス界に残してくれたものは世界への道筋であり、日本人でも臆することなく結果を残せるというロールモデルだ。ただし、第2、第3の錦織を生み出すことは、錦織自身も認めるように簡単なことではない。

 さらに、日本で“スポーツを文化にする”というフレーズを21世紀に入ってから、よく耳にしてきたが、テニスは日本の中でメジャースポーツとは言えない現状を踏まえると、一般市民にスポーツ文化、またはテニス文化が定着するのにはまだまだ時間を要しそうだ。だからこそ、今後も錦織の力は必要不可欠と言える。

「僕と、最近では(大坂)なおみちゃんも日本を背負って一緒に戦ってきて、もうちょっと日本でテニスを大きくさせたかったなという思いはあります。テニスもそうですし、スポーツというものが、ヨーロッパとかアメリカではものすごく大きな価値のあるものですけど、それをもっともっと日本でもスポーツの価値を上げていけるような活動ができたらいいな」

 “プロテニスプレーヤー・錦織圭”の歩みは終わりを告げたが、“テニス人・錦織圭”の歩みは今始まったばかりだ。これから日本テニスの未来と新しいスポーツ文化を、錦織と共に創造できるかもしれないという可能性を考えるとワクワクが止まらない。

現役引退直後の錦織圭を、ロジャー・フェデラー、国枝慎吾らが祝福! フェデラー&錦織ドリームダブルスチームの実現にファン歓喜

錦織圭が、現役時代に唯一憧れを抱いた選手が、ロジャー・フェデラーだった。そのフェデラーと引退直後の時間を共有できたことは、錦織にとって、この上ない幸せな時間だったに違いない――。

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神仁司

著者プロフィール 神仁司

1969年2月15日生まれ。東京都出身。明治大学商学部卒業。キヤノン販売(現キヤノンマーケティングジャパン)勤務の後、テニス専門誌の記者を経てフリーランスに。テニスの4大メジャーであるグランドスラムをはじめ数々のテニス国際大会を取材している。錦織圭やクルム伊達公子や松岡修造ら、多数のテニス選手へのインタビュー取材も行っている。国際テニスの殿堂の審査員でもある。著書に、「錦織圭 15-0」(実業之日本社)や「STEP~森田あゆみ、トップへの階段~」がある。ITWA国際テニスライター協会のメンバー 。