挫折を経験し、“サラリーマンボクサー”の道へ

 4月11日、株式会社RIGHT STUFF主催による「アスリートの競技生活とその後に続くキャリア」と題したセミナーが開催された。一流のアスリートが現役時代に何を考え、そして引退後に何を感じたのか。スポーツ界の問題の一つとして浮かび続ける議題を元ライトフライ級世界チャンピオンの木村悠氏が他のアスリートたちとともに語った。

 木村がボクシングに出会ったのは、習志野高校在籍時。高校時代にはインターハイで3位、国民体育大会で2位との好成績を収め、大学は法政に進みボクシング部に所属した。大学の時には目標としていた全日本選手権に優勝。これだけの経歴を見ると、栄光までの道のりを順調に駆け上がってきたかのように思えるだろう。だが、夢であったオリンピックを逃したことで、彼は最初の挫折を経験する。失意の中、プロの戦いに身を投じるべく帝拳ジムへの所属を決意するが、キャリアをスタートさせてすぐにその厳しさを知ることになった。

「アマチュアからプロに進む中で次のステップを舐めている自分もいた」と木村は過去を振り返る。日本チャンピオンや世界チャンピオンとスパーリングができる環境に身を置き、良い勝負ができているという実感があった。そんな日々が、世界チャンピオンという目標が簡単に手の届くものであるかのような錯覚を抱かせた。だが、プロの世界はそれほど甘くない。2006年10月7日、後楽園ホールでのデビュー戦に勝利するも、プロ6戦目にして5回負傷判定負けを喫し、再び挫折を味わうことになる。

 この敗北で現実に直面した木村は、「自分を180度変えなくては、もう成長はない」との結論に至ったという。だが、どう変わればいいかがわからなかった。もうボクシングは辞めようかという思いもよぎったが、「姉に『もう一度頑張ってみたら?』と言われ、立ち止まりました」というように、家族の一言で踏みとどまっていた。

 変化が必要な時、きっかけを与えてくれるのは周囲の人々だ。その後の身の振り方に迷っていた時、気分転換にと久しぶりに再会した大学の友人たちがものすごく成長して見えたという。当時、まだ社会人2年目だった彼らの劇的な変化が、木村の求めていた答えだった。「自分も社会に出て環境を変えれば、何かを変えられるのではないか」と感じた彼は、その思いを行動に移す。

仕事はあくまでもボクサーとしての成長のため

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 自分を180度変えるため、そしてキャリアをもう一度見直すために、木村はサラリーマンという道を選択した。自分の環境を大きく変えてボクシングを続けていくという異例の決断。この時すでに家庭を築いていたが、そのサポートも助けとなったという。「妻も勝つために一緒に進んでいってくれて、家族のサポートには本当に助けられました」

 とはいえ、木村にとってこれが初めての職歴というわけではなかった。プロボクサーとしてスタートした頃はボクシングだけでは食べていけず、スポーツジムでアルバイトをしていた。当時は実家暮らしだったため、午前中にトレーニング、午後にはジム通い、そして夕方以降はアルバイトに励むという日々。ただし、アルバイトならではの自由さが、彼にはアダとなっていたようだ。「好きな時に休むことができ、自由だったため生活が乱れることが多かった」。働くのであれば、アルバイトのままではいけないと実感していた。

 社会人としてボクシングと向き合っていくため、木村は2008年に電力関連の専門商社である植松エンジニアリングに就職する。サラリーマンとしては午前9時から仕事をして、午後6時にはジムでのトレーニングに向かう生活を送った。「慣れるまでは大変だったが、仕事を始めた中で人とのコミュニケーションや仕事への取り組み方が自分の練習の参考にもなっていった」という。商社の営業に取り組み、顧客とのやり取りの中で、駆け引きや相手の立場に立つことの重要性を学んでいった。限られた時間の中でどう仕事をこなすか。常に考えることがそのままボクシングの練習や試合に活かされ、結果へと繋がっていったと明かす。

 もちろん、“二足のわらじ”はすべて順風満帆というわけではなかった。最初はカルチャーショックの連続。定時になっても、仕事が終わっていなければ残業するというサラリーマンの“常識”も知った。仕事をすればするほど練習時間は減っていく。だが、様々な問題について「考えること」や「解決すること」が習慣化された彼にとっては、もはや逆境とはならなかった。「短時間で実のある練習をしなくてはいけないという環境に置かれたことで、ダラダラ練習するのではなく、限られた時間で自分が成果を出すことができるかを考えるようになりました」

 トレーニングにとってマイナスとなる職場の飲み会などには参加できかったが、自身の目論見どおり、社会経験がボクサー木村を変えた。就職から2年が経過した2010年3月29日には、敗北を喫した試合以来となる戦いに勝利。翌年には初のKO負けを経験するが、成長のきっかけをつかんだ彼が再び迷うことはなかった。着実に商社マンとボクサーのデュアルキャリアを邁進、2014年2月1日に日本ライトフライ級2位の堀川謙一に打ち勝ち、初の日本ライトフライ級王座のタイトルを獲得する。

夢の実現と、夢の終わり

 日本ライトフライ級王座を3度防衛した頃、木村にとっての機は熟していた。2015年6月20日に王座を返上。その年の11月28日にWBC世界ライトフライ級王者のペドロ・ゲバラと対戦し、初挑戦ながら世界チャンピオンの座を獲得する。

 世界王者となった瞬間に湧き出たのは、「周囲の人への感謝」だと言う。二足のわらじで色々と言われることもあったが、ネガティブな意見に対しても見返してやりたいという強い気持ちが生まれ、そんな自分を多くの人々が応援してくれた。

「仕事とボクシングを両立することで人との繋がりが増え、自分の意識も変わりました。仕事をしていなかったら、世界王者にはなれなかったと感じています」

 一見遠回りにも映るデュアルキャリアという選択が、新たな世界を広げ、最終的には最大の夢であったチャンピオンベルトを彼にもたらした。

 だが、永遠に覚めない夢はない。プロボクサーの場合は、世界王者になった瞬間から、常に夢の終わりと隣り合わせだ。2016年3月4日、WBCラテンアメリカフライ級王者のガニガン・ロペスに判定負けで敗れ、木村は王座を奪われる。残酷にも“引退”の二文字が浮上した瞬間だった。

 その決断には、迷いがなかったという。一度頂点を経験したためか「ボクシングはやり切った感があった」と引退の理由を振り返る。敗戦直後には、違った世界を見てみたいという意欲が生まれていたほどだったという。

 引退決断後も、彼は職場での業務を続けていた。1カ月ぐらいは仕事を淡々とこなしていく中で、練習や減量を考えなくて良いという解放感さえあった。だが、ボクシングが日々の生活からなくなったことで、ジワジワと心に穴が空いていった。「その穴は仕事では埋まりませんでした。本来の自分を取り戻せない時期が続いたのを覚えています」

 燃え尽き症候群のような状況に陥りながら路頭に迷わずに済んだのも、デュアルキャリアの恩恵と言えるかもしれない。時間が経過するとともに少しずつ、気持ちも落ち着かせることができた。

救われた経験が引退後のキャリアに

 プロ6戦目に挫折を経験したことで挑んだ商社マンとプロボクサーのデュアルキャリア。実は、木村が就職を決めるまでには半年の時間を要している。「ボクサーは怖くて危ない存在、すぐにケンカをすると思われていました」と当時を笑って振り返る。

 加えて、ボクシングと仕事の両立に理解を示してくれる企業も決して多くはなかった。プロボクサーがサラリーマンとなることの難しさを痛感していた時に、アスリートのキャリアをサポートしている人々との出会いがあった。自分のために必死に動いてくれた人々のおかげで、安定した生活とともに、ボクサーとして“変わる”きっかけを得ることができたのだ。

 現役引退後、木村の胸に去来したのは、その頃お世話になった人々への感謝と憧憬の念だった。人に影響を与え、夢の実現を後押しする仕事の素晴らしさを、彼は身を持って知っていた。2016年の年末、8年間勤めた商社を辞め、2017年2月に門を叩いたのが、現在所属する株式会社FiNCだった。彼はここでアスリートサポート事業に携わり、現役のアスリートサポートやセカンドキャリアへの取り組みを行っている。

「力やエネルギーのあるアスリートはきっかけやサポートしてくれる人次第で、引退後もリーダーとして活躍できる場所ができるはず」と木村は語る。そんな場所を増やし、日本を元気にしていく事業に今は力を注いでいる。

チャンピオンになるために必要な“本当の強さ”とは

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 リングの上で世界最高峰の戦いを繰り広げてきた木村の経験は、誰もが得られるものではない。試合の時に感じる恐怖。対角線上に自らを倒さんとする相手が立っているリングでしか味わえないリアルな感覚。そんな経験を数多く積んできた彼が語る“本当の強さ”には、アスリートの真実が宿っている。

「強い選手はいっぱいいるが、強いからチャンピオンになれるとは限らない。」

 では、どんな者がチャンピオンになれるのか。それは、人から応援され、その応援を力に変えられる者だと彼は語る。どんなに強くても、周囲に応援されない選手はチャンスにすら恵まれない。そんな選手にはタイトルマッチなど巡ってこないのだ。

「人の応援をどれだけ力に変えられるか、そして感謝の気持ちを持つことができるか」。誰かの力を借りながら、デュアルキャリアに必死に取り組むことで夢を実現した元世界王者。その手によって、日本のスポーツ界、あるいはビジネスシーンに“第二の木村悠”が育まれることを期待したい。


新川諒

1986年、大阪府生まれ。オハイオ州のBaldwin-Wallace大学でスポーツマネージメントを専攻し、在学時にクリーブランド・インディアンズで広報部インターン兼通訳として2年間勤務。その後ボストン・レッドソックス、ミネソタ・ツインズ、シカゴ・カブスで5年間日本人選手の通訳を担当。2015年からフリーとなり、通訳・翻訳者・ライターとして活動中。