大きな一歩となった「NPBエンタープライズ」の発足

 同じベスト4でも13年、15年に比べて達成感のある結末だった。ありえない盗塁死のあった前回のWBC準決勝、大逆転負けだったプレミア12準決勝のような不完全燃焼感はない。そもそも過去最強のメンバーだったアメリカに敗れることを恥じる必要はない。06年、09年の連覇も細かく振り返ると薄氷の結果だった。しかし17年は6勝1敗で大会を終えたことも評価できる。

 自分がそういう結果以上にポジティブだったと考えるのは、侍ジャパンを支える体制の進化だ。13年には小久保裕紀氏が侍ジャパン初の常任監督に就任した。それ以上に大きかったのは「株式会社NPBエンタープライズ」の発足だ。代表活動、侍ジャパン事業を主導する法人が14年11月に設立されている。

 例えば「小久保監督より良い監督がいたはず」という議論はあるだろう。「メジャーリーガーを呼んで最強のジャパンを編成するべきだった」という声もあるだろう。一方で日本の球界には他競技のような全体の統括組織がなく、国際オリンピック委員会(IOC)に日本から加盟している組織も日本野球連盟(通称JABA=社会人野球の統括組織)だ。国を挙げてチーム作りをするしっかりとした体制を球界は持っていない。

 メジャーリーグベースボール(MLB)と折衝に当たるのは日本野球機構(NPB=プロ野球の統括組織)だが、そこに経営や交渉、強化といった実務を求めることは難しかった。初回のWBCはロジスティクスが弱く、侍ジャパンの遠征もかなり過酷だったと聞く。しかし今回はアメリカへの移動も全席ビジネスクラスのチャーター機。羽田空港から現地まで直行だった。

 ジャパンをプライド、愛国心だけで動かすことはできない。必要なのは人材とお金、そして効率的な組織だ。日本代表監督が務まる人材には、それなりの年俸が必要だ。ダルビッシュ有や田中将大を侍ジャパンに呼ぼうというなら、そういう交渉のできる人材が必要だ。

 MLBの球団、代理人に対して参加のメリットを説明し、場合によっては負傷などのリスクに対する補填も提示する。投球回数、起用方法についても納得できる数字を出す。権限を持った人間が、そういう交渉を英語でできれば望ましい。そういう人材がいて初めて、メジャーリーガーの出場は現実的なものになる。

 お金がなければチャーター機は運行できないし、侍ジャパンを切り盛りできる人材も雇用できない。華やかな代表活動には様々な面倒も伴うわけだが--。NPBエンタープライズの発足によってそういう現実と闘う下地ができた。

この4年でできた未来につながる足場

©️共同通信

 ベーブルースの来日から約80年に渡って、日本におけるMLB側との実質的なカウンターパートは読売新聞社だった。読売巨人軍は「日本代表がクラブ化した」ルーツを持つのだから、それは自然なことだった。一方でスポーツはエンターテイメントビジネスとして巨大化し、侍ジャパンも上を目指すなら他業種他団体とどう協業するか? という部分が問われる。そういう面になると新聞社は決して強くない。しかし侍ジャパンエンタープライズは活動に広がりを持たせることに成功している。

 今回の侍ジャパンは公式サイトが充実し、SNSへの発信もそれなりに気が利いていた。Web周りについて言えばNPB本体や日本サッカー協会に比べても「圧勝」だったと思う。イメージキャラクターとして「応援侍たまベヱ」が登場したり、侍ジャパンの常設応援団を結成して独自チャンテを用意したりという、細かい気配りもあった。

 そのような施策の一つひとつに「これではダメ」「もっと良くなる」という突っ込みはあるだろう。ただNPBエンタープライズにお金を集め、周りを巻き込む”仕事人”がいることは外から観察して強く感じさせられた。

 侍ジャパンの広がりはビジネス面だけではない。野球界は小中学生、高校、大学、社会人、プロとそれぞれ統括組織が違う。中学生年代の硬式野球団体だけで「主要7連盟」が挙げられる状態だ。「日本サッカー協会」に相当する組織がなく、それが普及や強化を妨げてきた。しかしNPBエンタープライズが主導したことで、今はU-12、U-15、U-18や大学、社会人の日本代表が「侍ジャパン」の愛称を用い、同じユニフォームを着用している。内側を見れば”ややこしいこと”は残っているが、表面的には全世代の統一に成功した。

 高校、大学、社会人と元プロの指導者が当たり前になった今になって「プロアマの壁」などという発想はナンセンスだ。とはいえ新聞社同士のライバル関係がある中で、NPBと高野連をすぐ一体化できるといったら難しい。ただ同じユニフォームを着る、侍ジャパンの愛称を使うといった協調関係の演出に、外堀を埋める効果はあっただろう。多団体の調整作業に成功した侍ジャパンの”中の人”は、球界の未来に向けた確かな一手を打った。

 短期的な成功なら勢い、運で決まることもある。しかし長期的な成功を目指すなら、しっかりした構造作りが必要だ。この4年間で侍ジャパン事業は日本野球の未来につながる足場を作った。それは今大会の内容、結果以上に尊いものだった。


大島和人

1976年に神奈川県で出生。育ちは埼玉で、東京都町田市在住。早稲田大在学中にテレビ局のリサーチャーとしてスポーツ報道の現場に足を踏み入れた。卒業後は損害保険会社、調査会社などの勤務を経たものの、2010年から再びスポーツの世界に戻ってライター活動を開始。バスケットボールやサッカー、野球、ラグビーなどの現場に足を運び、取材は年300試合を超える。日本をアメリカ、スペイン、ブラジルのような“球技大国”にすることが一生の夢で、球技ライターを自称している。