文=神津伸子

『あなたたちへのパス』

“BIG TRY すべての人を、夢中にできるか”

 これは日本ラグビーフットボール協会が2月に発表した新ロゴとキャッチコピーだ。来たるW杯と東京五輪を意識してのお披露目となった。

 この新ロゴとキャッチコピーの発表記者会見でメディアにも配布された道徳素材集『あなたたちへのパス』が好評だ。

「スポーツがさらにその人を磨くのでしょうね。私にもとても良い刺激になりました。自分の日々の仕事への取り組みにおいても参考になることが沢山ありました。また、多くの仲間たちにも読んでもらいたいです」(29歳・会社員)

「仕事の現場でも心身ともにタフな方って何かに打ち込んでいた方が多い。色々やってみて、小さな失敗や壁にぶち当たり、苦しんでも突破する力が今を生きる糧になる。廣瀬さんのような考え方と行動力は、ビジネスの世界でもとても参考になる!」(42歳・自営)

「教室の掃除に、気合を入れるようになりました」(50歳・塾経営者)などと、手にした人たちから絶賛する声が上がっている。

 協会によると、素材集は中学生の道徳授業向けに配布中。発行部数は5000部、配布地域は東京都、岩手県などラグビーワールドカップ開催12都市を中心に随時、配られていくという。また、ラグビー協会のホームページからもダウンロードすることが可能だ。

ラグビー協会 中学校道徳教材のご案内

 配布の目的は「素材集を見ることでラグビーというスポーツを身近に感じ、ラグビーで実際に起こったエピソードを通じて、仲間と自分を考えるヒントを提供すること」と、協会の制作担当者は話す。発行にかかった費用は印刷代程度とのこと。実は、ラグビーは競技人口が年々減少して来ているが、若年層では、日本が南アフリカから金星を挙げたW杯あたりから、競技人口が増加している。

 では、どのような内容が評判を呼んだのか。

試合前の靴磨き

©Getty Images

 冊子は、3つのテーマで構成されている。

1 世界一のロッカールーム
2 国家を高らかに
3 敗者のいないノーサイド

 一部内容を紹介すると――。

 2011年東日本大震災後のチャリティマッチの前の晩の事だ。

 当時、トップリーグ選抜主将だった廣瀬俊朗はチームメイトを集め、皆でスパイクを磨いていた。その場面を偶然見かけたエディ・ジョーンズは、廣瀬らの姿にひどく感銘を受けた。そして、翌年、エディは日本代表ヘッドコーチに就任した際に迷わず、廣瀬を主将に任命した。

 廣瀬は、2007年から日本代表に選ばれており、これまで28試合に出場している。5歳でラグビーを始め、大阪・北野高校在学時に高校日本代表に選ばれた。その後、慶應義塾大学、東芝ブルーインパルスで活躍。高校、大学、社会人、日本代表と、所属したチームすべてでキャプテンを務めた経験を持つ。

 何故“試合前に”スパイクを磨いたのか。廣瀬はこう話す。

1 スパイクを磨く事で、試合の前日であるという事を強く意識する事が出来る。
2 試合前に、試合相手と向き合った時に自分たちのスパイクの方が綺麗だったら、自分たちの方が良い準備が出来たと実感でき、自信が持てる。
3 綺麗なグラウンド、綺麗なスパイクなら子供たちも憧れる。それを見て、物を大切にする感謝の気持ちも生まれる。
4 試合前に、場を作りたかった。一緒にスパイクを磨きながら、何てことない話をする。リラックスも出来るし、和が出来て、それがチームへの忠誠心を高める事にもなる。

 廣瀬は周知の通り、W杯で一度も試合に出場する事はなかった。

 エディから、「試合に出ない者は、キャプテンにはなれない」と、主将を外され、後輩のリーチ・マイケルにバトンタッチされている。それでも、廣瀬は最後の最後まで諦めなかった。

 W杯最終アメリカ戦の練習で真っ先にグラウンドに飛び出していったのは、廣瀬とリーチだった。

ロッカールームの掃除

©️共同通信

 2つめのエピソード。

 2015年南アフリカを劇的に破った試合後、廣瀬らベンチメンバー落ちした選手ら、数名がロッカールームの掃除を始めた。理由は、こうだ。

「メンバー落ちは本当に悔しく、腹が立ち、しばらくロッカールームから出られないほど。だけど、人前で嫌な顔は見せられない。気持ちを切り替えなければ。どんなに小さな事だって“次の役割は必ずある”」(廣瀬)

 次のスコットランド戦では、更にリザーブ選手を中心に、掃除メンバーが増え、最終、サモア戦ではほぼ全員の選手とスタッフが掃除に加わった。

「自分たちが使った場所を、気持ち良く次のチームに渡すために。感謝の気持ちも込めて」

 廣瀬によると、実は日本代表がロッカーを掃除し始めたのは、2012年当時の代表主将が菊谷崇(2011年W杯に全試合出場)だった頃から、始められていたという。

 歴史的勝利は技術の向上だけでは、決して生まれない。尊い心の持ち方こそ、新たな歴史を刻むのだと。

「すべてが勉強なのです。人生において」(廣瀬)

 奇しくも、東芝ブレイブルーパスは廣瀬を、新年度からバックスコーチに採用。オールドファンからも「廣瀬が、東芝のバックスコーチになりましたね。このタイミングでの発表は、東芝ラグビー部の存続のメッセージと受け取りました。今季の東芝の復活を期待しています」といった声が上がっている。

 ぜひ、迷走する本社の方々にも、道徳本を読んで気合も入れ直して欲しいものだ。


神津伸子

ジャーナリスト。慶應義塾大学文学部卒業。シャープ(株)東京広報室を経て、産経新聞入社。社会部、文化部取材記者として活動。カナダ・トロントに移り住み、フリーランスとして独立。帰国後の著書に『命のアサガオ 永遠に』(晶文社)『氷上の闘う女神たち 女子アイスホッケー日本代表の軌跡』(双葉社)。『もうひとつの僕の生きる道』(角川書店)企画・編集。AERA『女子アイスホッケー・スマイルJAPAN』『SAYONARA国立競技場』など執筆多数。