文=内田暁

男子テニス界に現れた新星の正体

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(写真=2003年に撮影した家族との記念撮影で、両親と兄のミーシャに囲まれるアレクサンダー・ズベレフ)

 20代最後の日は、ノバク・ジョコビッチにとって苦味の残る一日となっただろうか……。

 30歳の誕生日を翌日に控えた5月21日、ローマ・マスターズ(イタリア国際テニス)決勝の舞台に立つジョコビッチが迎え撃ったのは、4月20日に20歳になったばかりのアレンクサンダー・ズベレフ。198cmの長身に、あどけない——しかし目には野心の光を宿す——双眸(そうぼう)を備えた、次世代の旗手である。

 両者がツアーの公式戦で戦うのは初めてだが、実は二人は15年来の知り合いでもある。15年前といえばズベレフはまだ4~4歳。しかし、その頃から彼はすでにテニス界における“顔なじみ”だった。

「兄がノバクやアンディ(マリー)と練習するときに、僕も一緒にコートに行って彼らとボールを打ったり、サッカーで遊んでもらったりしていた。二人とも、当時の僕にとっては身近なお兄ちゃんのような存在だったんだ」

 まだ物心がついたばかりの幼い日を、ズベレフ家の末弟は回想する。彼には10歳年長の兄・ミーシャが居て、その兄はジョコビッチやマリーと同期の有望なジュニア選手だった。両親ともにコーチというテニス一家に育ったアレクサンダーは、公園に行くように毎日コートに足を運び、砂いじりをするようにボールとラケットで戯れてきた。とはいえ、決して両親にテニスを強制されたわけではないという。現に少年時代はサッカーやホッケーも興じたが、彼が憧憬の目を向けたのはラケットバックを背負い世界を股にかける兄の姿だった。

「家族にテニスをしろと言われたことはない。12歳の頃に一つの競技に絞ろうと思ったとき、最も好きなスポーツがテニスだったんだ」

 その弟の言葉を兄のミーシャも裏付ける。

「僕らがサーシャ(A・ズベレフのニックネーム)にテニスを強要したかって? とんでもない! サーシャが、僕らにテニスを強要したんだよ」

 数多のケガを経験し、2年前の今頃はコーチ業への転向も考えていた兄は、顔中に優しい笑みを浮かべて証言を続けた。

「僕が試合をして疲れて帰ってくると、サーシャが待ち構えている。『ごめん、サーシャ。今日は疲れているから練習はやめにしよう』、そう頼んでも彼は聞き入れてくれないんだ。『だめだよ、約束したじゃないか!』ってね」

自信を得て、いざパリの地へ

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(写真=ズベレフのバックハンドは安定感と破壊力を増し、大きな武器となっている)

 優しい兄と毎日のようにボールを打ち、その兄のライバルたちとも無邪気に遊んできた男の子は、やがて世界の頂点に君臨するかつての“身近なお兄ちゃん”たちを脅かす存在となる。ローマ・マスターズ決勝戦でのズベレフはスピードと正確性を兼備したサーブ、そして安定感と破壊力を増したバックハンドのストロークでジョコビッチを終始圧倒した。世界2位を6-4、6-3のスコアで破ったズベレフは、ジョコビッチが2007年に19歳でマイアミ・マスターズを制して以来、最も若いマスターズ王者となったのである。

「今大会が始まったとき、考えていたことはまず初戦を勝つことだけだった。優勝は予測もできなかった」

 喜び以上に驚きの色を顔に浮かべるズベレフは、それでも来たる全仏に向け次のように語る。

「ローマに来る前は、自分が全仏で優勝する可能性はゼロだと思っていた。でも今回の大会で、僕は世界のトップ選手たちにも勝つ力があることを示した。パリにも、この状態を維持して向かいたい」

元世界1位が新たな決意で全仏に挑む

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(写真=アガシをコーチに迎え、ジョコビッチはさらなる進化を見せられるのか)

 一方ズベレフに敗れたジョコビッチは、試合後の会見で「アンドレ・アガシをコーチにつける」ことを公表し、新たなスタートラインに立つ決意を印象づけた。

 約2年半の長きに渡り不動の世界1位に座してきたジョコビッチだが、今季まだツアー1勝に留まっている。その彼が10年以上師事したコーチやトレーナーたちをすべて解雇したニュースは、迷走か、あるいは覚悟の表出かと、さまざまな憶測を巻き起こしていた。果たして、長いキャリアを誇った元世界1位の新コーチに助言を求めた事実は、環境を変えることで無理矢理にでも停滞感を打ち破ろうとするジョコビッチの内なる衝動と渇望を裏付ける。

「アンドレには、多大なる敬意を抱いている。彼は、僕が今経験しているすべてのことを、キャリアの中で経験してきた」

 アガシに白羽の矢を立てた訳を現・世界2位はそう語る。10代の頃からテニス界の革命児として注目を集め、その後公私に渡る有為転変を経た末に30代にして最盛期を迎えたアガシの足跡に、30歳を迎えたジョコビッチは自分の未来を重ねたのかもしれない。

 全仏オープン前、最後のマスターズであるローマ大会は、若き王者の野心とベテランの域に入ったジョコビッチの新たな決意を相克の中で浮かび上がらせた。

 その全仏で優勝候補の筆頭に立つのは、今季モンテカルロ、バルセロナ、そしてマドリードで3大会連続優勝を果たしたラファエル・ナダル。10度目のタイトルに邁進する赤土の王者を中央に据え、新旧ともに変動の兆しを見せる男子テニス界の今の姿が、ローラン・ギャロスの赤土の上に描かれる。


内田暁

6年間の編集プロダクション勤務を経て、2004年にフリーランスとして活動し始める。2008年頃からテニスを中心に取材。その他にも科学や、アニメ、漫画など幅広いジャンルで執筆する。著書に『錦織圭 リターンゲーム:世界に挑む9387日の軌跡』(学研プラス)、『勝てる脳、負ける脳』(集英社)、『中高生のスポーツハローワーク』(学研プラス)など。