文=日比野恭三

断絶のきっかけは柳川事件

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 徳島県立池田高校野球部を40年間にわたって指導し、春夏通じて3度の甲子園優勝を果たした故・蔦文也は、東映フライヤーズに所属した元プロ野球選手だった。わずか1年間に終わったプロ生活を経て、池田高の監督に就任したのは1952年。あと10年遅く生まれていたら、蔦が高校野球の名将として名を残すことはなかっただろう。

 現在も完全には解消されていない球界におけるプロとアマの断絶が始まったのは、1961年の柳川事件がきっかけだ。当時、社会人とプロの間には、選手の引き抜きに関する協定があった。まだドラフト制度も導入されていない時代、社会人側としては大事な大会である社会人野球日本選手権の前に選手を引き抜かれては困るため、大会が終わるまでプロ側は選手をスカウトできないことになっていた。

 一方で、社会人野球はプロ退団者の受け皿にもなっていたが、プロ野球のOBが無秩序に加入すると、安易な補強につながったり、アマ選手のポジションが奪われてしまうなどといった懸念があった。そのため社会人側は、プロOBが社会人チームに登録できるのは退団から1年後、しかも1チームあたり3人までという内容を協定に追加しようとした。

 しかしプロはこれを拒絶して協定は破棄される。そして無協定状態のなか、1961年4月20日に中日が日本生命の柳川福三選手(写真左から3番目)と契約。社会人側は緊急理事会を開いて、プロとの関係断絶を決定した。これに学生野球界も同調したことで、プロ・アマの交流は途絶えることとなった。

 双方の雪解けは、極めてゆっくりと、段階的に進んだ。1973年に大学が、元プロ選手が届け出をすれば出身校に限り指導を許可する姿勢を示し、1984年には高校が、「元プロ野球選手の高校教諭10年勤続者に対する特別措置」を実施した。つまり、高校の先生として10年間働けば高校野球の指導が許されることとなったのだ。1994年には勤続期間が5年に、1997年には2年に短縮され、2013年にようやく2年の縛りも撤廃されて、プロ側が行う研修(1日・7コマ)とアマ側が行う研修(2日・10コマ)と適性検査を受ければ、高校・大学の指導者になる資格を回復できることになった。

 また1994年には、全日本野球会議が発足。日本では初めてとなる野球界の統一横断組織として、プロ・アマ間の情報交換や競技普及のための統一施策の検討・実施がなされる場がつくられた。さらに2010年、学生野球憲章が1950年の制定以来はじめて全面的に改正された。これによりプロと学生の交流試合が可能になり、一定の条件をクリアしたものであれば練習会や講習会を開けるようになった。

プロが母校で練習するために必要な手続き

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 現在、プロと社会人の垣根は事実上なくなっているし、プロ野球OBが年単位の時間をかけることなく大学や高校の指導者になる道も開けた。融和はここにきて加速しているように見えるが、残された課題は現役のプロ野球選手と学生との関わり方だろう。

 2005年、現役プロ選手がシーズンオフに母校で練習することができるようになった。そのため、学校のグラウンドでプロが高校生と一緒にトレーニングをすることもあるわけだが、これに関する規定を確認すると頭が痛くなる。日本学生野球協会のホームページにある「プロ野球現役選手の母校練習参加に関する申し合わせ事項」から抜粋する。

1) 母校の練習参加には所属連盟に事前連絡が必要で、必ず前日までの連絡、確認を高校においては野球部責任教師または監督、大学においては監督または専任コーチと取ること。
6) 野球部員全体への挨拶、自己紹介や激励などの話をすることは差し支えないが、技術指導を伴うミーティングをすることはできない。
7) トレーニング中、個々の部員に気がついたアドバイスをすることは差し支えないが、ノックをするなどの指導はできない。

 同じグラウンドで野球の練習をしながらも、挨拶・自己紹介・激励はよいが技術指導はダメ。気がついたアドバイスはよいが、ノックはダメ……。

 これでは、憧れであり目標であるプロ野球選手が間近にいながら、規定違反が怖くて、ろくに会話もできない。歴史的な経緯があるとはいえ、ふつうに考えて異様なルールであり、誰かにとってプラスなのだろうかと首をひねりたくもなる。

 競技人口の低下も指摘されているいまだからこそ、プロ・アマのさらなる融和が進むことに期待したい。


日比野恭三

1981年、宮崎県生まれ。PR代理店勤務などを経て、2010年から6年間『Sports Graphic Number』編集部に所属。現在はフリーランスのライター・編集者として、野球やボクシングを中心とした各種競技、またスポーツビジネスを取材対象に活動中。