名前 | 橋本英郎(ハシモトヒデオ) |
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生年月日 | 1979年5月21日 |
国 | 日本 |
出身 | 大阪府大阪市 |
プロフィール | 天王寺高を経て、大阪市立大に進学。1996年U-18代表候補。
ガンバユースを経て、在学中の1998年ガンバ大阪と練習生契約を結ぶ。1998年、トップチームに昇格。2001年から出場機会を増やし、2005年中盤に定着して、ガンバのリーグ初優勝に貢献。 その後も、黄金の中盤の一角として、チームの黄金時代を牽引。2008年のクラブW杯準決勝・マンチェスターユナイテッド戦では、敗戦するも1ゴール1アシスト。2010年、クラブタイ記録の6試合連続ゴールを記録。2011年ガンバを退団。 2012年ヴィッセル神戸へ完全移籍。同年J2降格を経験。2013年、1年でJ1昇格を実現。2015年セレッソ大阪へ移籍、2016年7月、J3のAC長野パルセイロへ期限付き移籍。2017年からは東京ヴェルディ1969(J2)でプレー。 Jリーグ通算339試合出場19得点、国際Aマッチ15試合出場0得点(ともに2016年末現在)大阪市立大学経済学部卒、173センチ、68キロ |
練習生契約から這い上がり、ガンバユースからトップチームへ昇格
橋本英郎は、大阪府で生まれ、小学生時代から「大阪スポーツマンクラブ」でサッカーを始めます。そして阪南中学へ進学するとガンバ大阪のジュニアユースチームに所属しました。学業でも全く手を抜くことなく、府内有数の天王寺高校から、大阪市立大学というエリートコースを歩みます。サッカーでも、ジュニアからユースへ昇格し同じくエリートコースと行きたいところでした。しかし、ユースながらトップチームで活躍していた稲本潤一と大きく異なり、練習生契約という待遇でチャンスを待ちます。すると大学時代に、念願のトップ昇格を果たし、ガンバ大阪の一員となりました。
ガンバ中盤のレギュラーに定着して、初のJリーグ優勝に貢献
Jリーガーとなりましたが、当初は大学生との二足のわらじで両立は難しく、さらに稲本潤一ともポジションがかぶっていたため、多くの出場試合数を確保できません。しかし4年目の2001年シーズン、17試合出場と出場機会を増やすと、レギュラーへの道が開けます。2002年から、西野朗が監督に就任すると、クレバーなプレーぶりが認められて、完全に中盤のレギュラーの座を掴みました。
そして、2005年、全34試合中の33試合に出場し、遠藤保仁とともに中盤を支配します。二人は攻撃的サッカーを演出し、ついにクラブ初のJリーグ優勝を成し遂げました。アラウージョ、大黒将志、フェルナンジーニョら豊富な攻撃陣が取りざたされましたが、それを屋台骨として支えたのは橋本でした。攻撃陣を最大限に生かすため、柔軟にポジションをチェンジし縦横無尽にピッチを走り回ります。そうした献身的な活躍が評価され、西野監督が優勝の立役者としてMVPに選んだのも橋本でした。
チームの黄金時代に不可欠な存在となり、日本代表にも選出
初優勝で自信をつけたチームは、黄金時代を形成していきます。橋本英郎は、遠藤保仁、明神智和、二川孝広らと「黄金の中盤」を構成し、チームの中心であり続けました。2007年はナビスコカップ初優勝、2008年は、天皇杯制覇、ACL制覇に、クラブW杯3位、2009年も天皇杯連覇などクラブにビックタイトルをもたらします。2008年、3-5と大味なゲームで敗戦しましたが、クラブW杯準決勝のマンチェスターユナイテッド戦で見せた3点目のゴールは、その実力を証明するスーパーゴールでした。
こうした活躍で、2007年から日本代表にも度々選出されていきます。派手さはないものの、基本のボランチはもちろん両サイド、どのポジションに入っても確実にスペースを作り、攻守に貢献できるという強みは、イビチャ・オシム、岡田武史、アルベルト・ザッケローニと日本代表監督が代わる最中、召集され続けました。しかし、2010年のW杯には日本代表として残れません。バランス的には問題ありませんでしたが、怪我でそのチャンスを逸しました。
2010年シーズン、ガンバ大阪は開幕ダッシュに失敗します。しかしW杯終了後再開すると、チームタイ記録の6試合連続ゴールを記録してチームを優勝争いに参加させました。連戦続きの遠藤たちが不調に陥っても、どのポジショニングでもそつなくこなす橋本がまさにチームの救世主となり、最終的にはリーグ2位で終わります。タイトル奪還を目指した2011年、キャンプ中に右膝前十字靭帯損傷を負い、わずか4試合の出場に留まりました。同年のガンバはリーグ3位に終わり、西野朗監督も10年という人気を終えます。そして橋本も、同年限りでジュニアユース時代から20年を過ごしたガンバを去りました。
完全移籍したヴィッセル神戸では、J2からJ1昇格へ貢献
2012年、ヴィッセル神戸に完全移籍します。チームはメンバーが大幅に入れ替えられ、開幕からフィットせず、黒星が大きく先行しました。5月からは、再び西野朗が指揮を執り、橋本英郎も全34試合中24試合に出場しますが、急造チームは機能しません。11月には早くも西野監督が解任され、18チーム中の16位に沈みJ2降格が決定しました。
翌年もチームに残留し、自身初のJ2でのプレーをスタートさせます。すると開幕10試合を8勝1敗1分けと好スタートを切りました。ミスターポリバレントとも言われた橋本は、様々なポジションで高レベルなプレーを発揮し、34試合に出場します。奇しくも、同時にJ2降格した古巣ガンバ大阪とともに、1年でのJ1復帰に大きく貢献しました。
ベテラン選手となっても、J2、J3などチームを渡り歩きプレー
2015年、今度はセレッソ大阪へ移籍します。2014年シーズンはJ1で17位に終わり、J2降格したため、2シーズン連続でJ2でのプレーとなりました。30代中盤のベテランとなっていたため、14試合の出場に留まりチームも4位に終わります。その後プレーオフでも敗れて1年でのJ1復帰は実現できませんでした。
翌年もセレッソでプレーしていましたが、7月、J3のAC長野パルセイロに期限付き移籍が決まります。前々年、前年と惜しくも昇格圏まで後一歩と迫っていたチームでした。同年は開幕出遅れるも徐々に順位を上げて6節で首位に躍り出ます。しかし、その後順位を落とした頃に、橋本が合流しました。最終節にむかって何とか3位までチームは盛り返しましたが、また後一歩届かずJ2昇格は見送りとなります。橋本自身も2シーズン連続で、チームの上位リーグ昇格を実現できませんでした。2017年からは、再びユニフォームを変えて、J2の東京ヴェルディ1969でプレーしています。37歳と大ベテランとなりながらも、チーム9年ぶりのJ1復帰を目指して、挑戦しています。