名前都並敏史(ツナミサトシ)
生年月日1961年8月14日
日本
出身東京都
プロフィール1972年二子玉川小4年生の時にサッカーを始め、読売クラブに所属。

読売ユースを経て、1992年ヴェルディ川崎入り。1996年アビスパ福岡を経て、1997年ベルマーレ平塚に移籍。一方、1982年W杯スペイン大会予選で初めて日本代表に選ばれ、1986年W杯メキシコ大会予選、1994年W杯米国大会予選にも出場。DFとして活躍。1996年Jリーグ選手協会(JPA)副会長も務めた。1998年11月引退。

引退後はサッカー解説者として「スポーツうるぐす」「サッカー小僧3」などで活躍。ヴェルディ川崎テクニカルアドバイザーを経て、2000年12月川崎市から東京都にホームタウンを移した東京ヴェルディ1969ユース監督に就任。2001年トップチームコーチに就任。

2004年S級ライセンスを取得すると、2005年ベガルタ仙台監督就任(4位)。2006年、古巣東京ヴェルディ1969コーチを1年務め、2007年はセレッソ大阪監督に就任すると、シーズン途中で解任。2008年、横浜FC監督に3年契約で就任も、1年目10位とふるわず契約途中で解任。2014年からは、浦安SCテクニカルディレクター就任。

著書に「日本代表に捧ぐ」がある。Jリーグ功労賞、国際Aマッチ 78試合 2得点。深沢高卒

12歳から読売クラブ下部組織へ入り、18歳でトップチーム昇格

都並敏史は東京都世田谷区で生まれ、元々は野球少年として過ごします。10歳の頃、小学校の担任教師に教えられたことをきっかけにサッカーを始めます。そして6年生から同級生に誘われて、読売クラブの下部組織へ入りました。その後読売ユースへ昇格し、日本代表入りを目指してサッカーの上達に励みます。父親はサッカーをやることに反対しており、大学進学を望んでいましたが、高校時代に国体出場したことで一気に理解を示してくれるようになります。そして高校卒業後、読売クラブのトップチームへの昇格を果たしました。

トップチームで即レギュラーを奪い、19歳から日本代表にも抜擢

当時の読売クラブは、1977年に4度目の挑戦で初のJSL1部に昇格し、ラモス瑠偉らを中心として1部でも優勝争いを展開します。そんなチームに、下部組織からあがってきた都並敏史や戸塚哲也らが加わり、戦力を充実させていきました。都並はトップチームに昇格と同時に左サイドバックに転向し、1年目から多くの試合を経験します。そして、守備中心のポジションながら、機を見てオーバーラップして攻撃参加するという大きな特徴を持っていました。

1983年に、クラブチームとして初のJSL優勝を成し遂げると黄金時代が到来します。翌年は、JSL連覇に天皇杯の2冠を達成します。その後も、1986年から天皇杯を連覇すると、1988年以降、武田修宏、三浦知良、北澤豪ら強力メンバーがチームに加わりました。すると1989年シーズンからは2位、優勝、優勝と常勝軍団となります。Jリーグ開幕を目前に控え、都並はこの完成されたチーム不動の左サイドバックとして君臨していました。こうした活躍で、入団後まもない若干19歳で日本代表に選出されます。そこからは、当たり前のように代表メンバーとしても名を連ねました。

狂気の左サイドバックは出場することなく、ドーハの悲劇を生む

Jリーグ開幕が決まり、読売クラブはヴェルディ川崎として初年度からの参入が決まりました。前年のナビスコカップも制し、万全の状態でJリーグが開幕します。また前年、日本代表監督にハンス・オフトが就任し、日本初のW杯出場へ向けての戦いも始まっていました。人気実力No.1のヴェルディは、1stステージこそ2位でしたが、日本代表にも多くのメンバーを送り込みます。都並敏史も左サイドバックとして代表に復帰し、前線のラモス瑠偉、三浦知良へボールを送り込む攻撃はオフトジャパン最大の武器となっていました。

しかし、1993年5月、都並はJリーグ試合で左足首を負傷し、強行出場を続けた結果、亀裂骨折を負ってしまいます。W杯アジア最終予選を10月に控え、日本代表チームは左サイドバックの代役を探しました。しかし、都並と同じ役割をこなすプレイヤーは当時見当たりません。結果的に、試合に出られる状態ではないにもかかわらず、都並は代表メンバー入りしました。

日本代表は絶対的不利な状況から、北朝鮮、韓国を破り、初のW杯出場が現実味を帯びます。しかし、狂気の左サイドバックとして恐れられた都並は1試合も出場できず、最終のイラク戦を引き分け(ドーハの悲劇)、日本はW杯初出場を後一歩で逃しました。

選手時代晩年は、愛着あるチームを離れて、37歳で現役引退

失意の中、帰国した都並敏史は手術をうけましたが、状態は酷くJリーグ復帰に8ヶ月程要しました。1995年は、再びピッチに戻りヴェルディのニコスシリーズ優勝に貢献しましたが、全試合の半数にも満たない出場となります。そして同年限りで、慣れ親しんだチームを離れ、アビスパ福岡への移籍が決まりました。

新天地で迎えた初年度は、21試合に出場して意地を見せましたが、翌年途中にベルマーレ平塚へ移籍します。すでに年齢から来る衰えも感じており、1998年は5試合の出場に終わったこともあって同年現役引退を決意しました。

指導者に転身すると、Jリーグ3チームの監督を次々と歴任

その後は指導者に転身し、古巣ヴェルディ下部組織巡回コーチを経て、ユース監督に就任しました。そして2004年には、S級指導者資格を取得し、監督就任可能な状況を整えます。そして2005年からは、短いスパンでJリーグ監督を歴任していきました。初の監督経験は、J2ベガルタ仙台で、1年でのJ1昇格を目指しましたが、最終4位に終わり入れ替え戦出場をあと一歩で逃します。

2006年、古巣が低迷期にあり、J2降格した東京ヴェルディ1969のコーチとしてラモス瑠偉新監督を支えました。しかし、成績は振るわず1年での解任を経験します。すると2007年には、J2降格したセレッソ大阪の監督に就任しました。しかし、開幕ダッシュに失敗し、まさかのシーズン途中での解任となります。2008年は、横浜FC監督就任にあたって、3年契約という長期プランでスタートしました。しかし、チーム作りが順調に進行していないことを理由に、わずか1年で解任されます。なかなか指導者として結果が出ず、2010年からは再び古巣に戻り、東京ヴェルディ育成アドバイザーを数年間務めました。2014年からは、浦安SCテクニカルディレクターを務めています。


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