構成・文/キビタ キビオ 写真/下田直樹
「お客さんは神様!」と教えてくれた長嶋茂雄
──今回は、現在の“中畑清像”が形作られるのに、おそらくもっとも大きな影響を与えたとされる、長嶋茂雄さんについて伺おうと思います。“指導者”としての長嶋さんとは、中畑さんにとってどのような人物でしょう。
中畑 オレは、「勝つことも大事だけれど、ファンを喜ばせる野球をするのも大事」とか「捨て試合は作らない」といった言葉を、メディアや選手に向けて発してきたけど、よく考えたらそれは長嶋さんの教えだと思う。
──確かに、「お客様は神様ですから」というセリフは、公のコメントとしても定番でした。
中畑 オレにとっては、まさに原点だな。常にお客さんの目線というところに考え方があるというね。だってさ、長嶋さんは毎日のように試合があるのにいつも試合前にスタンドを見渡して「今日はお客さんがたくさん入っているなあ。頑張るぞー!」って、必ず言っていた人だから。
──そのテンションが、普通に“素”で保たれている。
中畑 長嶋さんの凄さって、それがすべてじゃないかなあ。しかも、常に“お客さんが第一”という姿勢は、プライベートであっても変わらないんだ。お客さんの地位とか身分などで区別することもまったくない。老若男女、どんなファンにも同じ対応をするからね。
──なかなかできることではありませんよね。
中畑 人が好きなんだろうな。そして、人を幸せにするために生まれてきた人だと思うよ。だから、長嶋さんは“太陽”なんだよ。人間界の“太陽”という存在。公の場では、常に誰に対してでも敬語で喋るしね。
──そういえば、確かにそうですね。
中畑 でも、一対一で向かい合うと、「おい、このクソキヨシ!」とか言うんだよ。それが、解説で同席するときは「ん~、中畑さん?」って、いつものあの調子になるんだから(笑)。そのメリハリはハンパじゃないよ。
年月を経て変化した長嶋監督の気性
──中畑さんが現役時代のときの“選手・中畑清 対 監督・長嶋茂雄”と、のちに1993年に巨人にコーチと入閣したときの“コーチ・中畑清 対 監督・長嶋茂雄”とでは、長嶋さんはどう変わりましたか?
中畑 そりゃ、大きく変わったよ! オレが現役のときは、軍隊みたいに厳しかったから、そのときの長嶋さんは、いわば“鬼軍曹”だよ。いまでは伝説とされている1979年秋の伊東キャンプなんかはその典型だな。ノックなんて、監督との対決……いや、もうケンカだよ! そのくらいの気性で長嶋さんと向かい合ったのは、あれがはじめてのことだった。
──中畑さんがコーチになった1993年になると?
中畑 伊東キャンプから、もう15年が過ぎていたからさ。新人だった松井秀喜(元ヤンキース他)を見ながら、長嶋さんは「いまの選手は違うなあ。お嬢さんだよ、お嬢さん。スカートはいて野球をやっているよ。みんな、そういう選手たちだぞ? いま、伊東キャンプなんてやったら、みんな壊れちゃうなあ」って話していたよ。
──かなり丸くなった感じがしますね。
中畑 芯のところはブレていなかったけど、自分の生き方とか考え方とかというのは、年齢を重ねて変わったんだろうね。状況の変化に対応するために、長嶋さんが自ら変えた部分はあったと思う。
アテネ五輪日本代表で見せた長嶋監督の意外な一面
──2002年にはアテネオリンピックの日本代表監督に就任しましたが、2004年8月の本番前となる4月に脳梗塞に倒れ、志半ばで指揮を断念します。そこで、ヘッドコーチだった中畑さんが監督代行を務めました。“日本代表”を背負ったときの長嶋茂雄さんというのは、どういう雰囲気でしたか?
中畑 長嶋さんは、「お国のためなら。日本バンザイ!」というタイプ。日の丸をつけたときのプレッシャーたるや、相当なものだったよ。だから、あのアテネの監督は長嶋さんからしてみれば、人生最後の大仕事として引き受けたんだ。そこには、日の丸を背負うことの大切さとか、日本の野球界全体としてまっとうしていかなくていけない責任を、「後々の世代に引き継いでいってくれる野球界の伝道師のような選手を作る」という使命を持って臨んだんだ。そのためにも、「自分の人生をすべて出し切って金メダルをとる!」という使命感しかなかった。
──それが、病に倒れた一因だったのかもしれませんね。
中畑 うん……まさに出しきった結果だよ。もの凄い執念だった。2013年秋のアジア予選で気力を出しきってしまって、本番前にああいうことになってしまったけどさ……。長嶋さんがアテネで本戦の指揮を執っていたら金メダルをとっていた、とオレは確信しているんだ。
──そんな危機感迫る長嶋さんの姿を見たのは、はじめてでしたか?
中畑 もちろんはじめてだよ! 予選を勝ち抜いて、本戦出場を決めた試合が終わったあと、ロッカーでユニフォームを脱ぎながら言うんだ。長嶋さんが疲れきった様子で声をからしながら、「はぁ~、キヨシ。これが“プレッシャー”っていうんだなあ?」って。そんな言葉を聞いたのも初めてだった。
──テレビのCMで、「プレッシャーを楽しむことができれば、その人は勝負強いですよ」と話しているイメージが強いので、それは意外です。
中畑 オレも身震いしたよ。しかも、まだ本番前のアジア予選で、だぞ? 確かに台湾、韓国は侮れないチームではある。もちろん“絶対”ということはなかったけれども、日本はこの大会から初めてオールプロ選手でチームを組んだから、実力的な差は明らかにあったんだ。それでも、あれだけのプレッシャーがかかっていたんだからなあ。オレもそのあと痛感することになるんだけど……「勝って当たり前」というチームに勝つことの大変さというのは、監督になってはじめて理解できることだよ。「絶対に負けられない」「万一、負けたらなにを言われるか分からない」という怖さというのは計り知れないものがある。それにしても、あのときの長嶋さんの疲れきった姿はいまでも忘れられないよ。
気配り上手の藤田元司監督、王貞治監督はホークスで成功
──最後に、中畑さんが巨人の選手時代に接したほかの監督のお話も伺わせてください。まず、1981年から1983年までの3年間と、現役最後のシーズンとなった1989年の2度に渡って監督として接した藤田元司さんについてはいかがでしょう。
中畑 藤田さんは、裏方も含めて万人に目配りがきく人だった。現役時代は、「悲運のエース」と言われていたけど、その経験によって身についた心の優しさからくる「人への思いやり」がある人だった。
──1980年のオフに長嶋さんが巨人の監督を辞任し、藤田さんが監督に就任された当初は、チームのムードはあまり良くなかったようですね?
中畑 藤田さんに対して敵対心を持っていたくらいだったからな。あの年に新しく入ってきた人は、「長嶋さんをクビにした人たちの集まり」だと思っていたんだ。でも、実際に会ったら全然違っていた。本当に器の大きな人だったよ。そして、接していく機会が増えていくうちに、「この人は、そこらへんにいるような監督のレベルじゃない。どこまでも男らしい人だ」と、尊敬するようになった。
──そして、就任した1年目にリーグ優勝、日本一になりました。
中畑 そのときに、さらに藤田さんが凄かったのは、優勝を決めた記者会見で「長嶋くんが育ててくれた選手の力で優勝できました」と話したんだ。人間ってさ、誰だって勝ったら自分の手柄にしたいじゃない? それを、いきなり他人の力で事を成し得たなんて、なかなか言えることではない。そういうところに、人として一番大事なこと、思いやりの大切さというものを、学ばせてもらったよ。「こういう監督になりたい」と思ったな。
──1984年から1988年まで巨人の監督を務めた、王貞治さんについてはいかがですか?
中畑 王さんは、「世界の王さん」だけれども、監督としてはそういった自分の実績とかやり方がすべてというわけではなく、意外にデータを重視したり、色々な物の見方からアプローチをしたりする人だった。
──チームの成績としては、1987年のリーグ優勝1度に留まりました。
中畑 当時の王さんは、あまりに責任感があり過ぎて、全部自分で背負ってしまっていたんだ。「もっともっとみんなに任せてくれればいいのにな」と思っていたよ。オレはもっと監督と選手の距離が近い“王一家”みたいなものを作りたかったけど、王さんのなかには「選手と慣れ合ってはいけない」という監督像があって、距離感ができてしまったんだ。それが、ホークスに行ってからは、だいぶ気持ちに余裕ができてきて人に任せるようになったと見ている。だから、成功したんだと思うよ。
──こうして振り返ると、すべての監督さんに色があって、また、その経験が監督・中畑清を作り上げるまでの血肉になっていると感じました。
中畑 そうだな。オレはつくづく指導者との出会いについては、恵まれていたと思うね。
中畑清
1954年、福島県生まれ。駒澤大学を経て1975年ドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。「絶好調!」をトレードマークとするムードメーカーとして活躍し、安定した打率と勝負強い打撃を誇る三塁手、一塁手として長年主軸を務めた。引退後は解説者、コーチを務め、2012年には横浜DeNAベイスターズの監督に就任。低迷するチームの底上げを図り、2015年前半終了時にはセ・リーグ首位に立つなど奮戦。今季から解説者に復帰した。
キビタ キビオ
1971年、東京都生まれ。30歳を越えてから転職し、ライター&編集者として『野球小僧』(現『野球太郎』)の編集部員を長年勤め、選手のプレーをストップウオッチで計測して考察する「炎のストップウオッチャー」を連載。現在はフリーとして、雑誌の取材原稿から書籍構成、『球辞苑』(NHK-BS)ほかメディア出演など幅広く活動している。