西武との開幕戦で快刀乱麻のピッチング!

日本人メジャーリーガーとして、実質的にその道を切り開いたレジェンド・野茂英雄(ドジャース他)。日本のプロ野球でも、1990年に近鉄バファローズで1年目から18勝を挙げて新人王を獲得。同時に、最多勝、最多奪三振、最高勝率、最優秀防御率と、パ・リーグの投手部門のタイトルを総ナメするというセンセーショナルなデビューを飾り、渡米するまでの5年間で通算78勝という実績を残した。
 だが、そのキャリアのなかには、大記録達成を目前に迫った“天国”から、一瞬にして“地獄”に転落した試合もあった。

それが、1994年のシーズンの幕開けとなる西武戦である。

 この試合、1993年に続いて2年連続で開幕投手を務めた野茂は、まだ屋根がついてなかった西武球場のマウンドに立つと、打者に背中を向ける独特の“トルネード投法”から、ストレートと伝家の宝刀であるフォークボールをグイグイと投げ込み、奪三振ショーを演出していく。荒れ球ゆえ四球も多かったが、8回までに12奪三振を記録。そこまで1本のヒットも打たれていなかった。
 前年オフの大型トレードで、この年にダイエーに移籍していた秋山幸二は、野茂の投球について「ストレートとフォーク。基本的にはこの2種類しか球種がないから、“丁半博打”の世界なんだけど、なかなか絞り切れない……」と、後年になっても嘆いていたが、その秋山が去ったこの年の西武打線も、秋山の言葉の通り狙い球を絞りきれず、ワンバウンドするようなフォークボールに空振りを繰り返し、ストレートには振り遅れていた。特に、この年秋山と入れ替わる形で加入した1番・佐々木誠から、“野茂キラー”として知られこの試合も2番に抜擢された笘篠誠治、新外国人として期待がかかった3番・パグリアグーロと並ぶ上位打線がそれぞれ2三振を喫するなど、攻撃の糸口は一向につかめぬままだった。

 一方で、西武先発の郭泰源も、当時としては他の追随を許さない140キロ前後の高速スライダー、シュートを左右に投げ分け、近鉄の“いてまえ打線”を翻弄。西武球場は、ライトからレフトへの強い風により、春らしく桜の花びらが緑の人工芝を舞い散るなか、試合は0対0の緊迫した状態で9回に突入していった。

ノーヒットノーラン達成まであと1イニングで“あの男”を迎える

試合がようやく動 いたのは9回表だった。近鉄は石井浩郎が郭の投げたインサイドのボールを豪快に振り抜き、4番打者としての役割を果たす3ランをレフトスタンドへ打ち込んだ。雄叫びを上げてホームインする石井と歓喜に湧く近鉄のダッグアウト。これで試合は3対0となり、試合の焦点は野茂のノーヒットノーラン達成に絞られることになる。

 9回裏の西武の先頭打者は、4番・清原和博。デビューした1990年以来、清原のことを常に意識して真正面から勝負をしてきた野茂は、大記録がかかったこの場面もストレート勝負を挑み、清原を力でねじ伏せようとした。
 だが、それに屈して開幕戦から不名誉な記録を打ち立てられることは許されなかった清原は、勝負どころで持ち前の集中力を発揮する。バットを一閃すると、打球はライトの頭上を越える二塁打となり、野茂のノーヒッター達成は打ち砕かれた。
 これまで、かたずをのむように見守っていた観客席からは、無念と安堵が入り混じった溜息が漏れる。とはいえ、点差はまだ3点もある。野茂が後続を抑えれば、完封勝利でライバルである西武に対して幸先の良いスタートが切れることにちがいはなかった。

 ところが、試合はこのあと意外な展開に発展していく。

5番・鈴木健が四球で一塁を埋めたあと、6番の石毛宏典はレフトフライに倒れて1死となったものの、続く代打ブリューワのセカンドゴロを名二塁手・大石大二郎がボールをグラブからこぼしてオールセーフとしてしまい1死満塁。試合前に「開幕戦は野茂と心中」と公言し、一、二塁になったところでマウンドに行ったときにも、ひと声かけただけでダッグアウトへ引き返して野茂に任せていたはずの近鉄・鈴木啓示監督は、ここで再びグラウンドへ足を踏み入れ、「ピッチャー、赤堀(元之)」を告げた。

 開幕戦で、エースがまだ失点をしていない状況での交代。それも、完投率が圧倒的に高かった野茂であれば、リアルタイムで見ていた者の多くが疑問符をつけてもおかしくないゆえ、その継投にスタンドからどよめきが起こった。そのバックボーンには、この状況で打席に入った伊東勤が野茂と相性が良く、この試合の先発メンバーのなかで唯一三振を喫していなかったということ。また、リリーフエースの赤堀が、前年、伊東を無安打に封じていたデータがあったため、鈴木監督は初心を曲げて継投に踏み切ったのだ。だが、それがドラマを生み出した。
 伊東は粘りに粘ったあと、赤堀の7球目に投じた高めのスライダーをとらえ、打球はレフトポール際へ。それが、この日吹いていたライトからレフトへの風にも乗って、スタンドに届いたのだ。
 3対0を一撃でひっくり返す、劇的な逆転満塁サヨナラホームラン。西武球場は大歓声の嵐となり、ホームインした伊東はすでにベテラン選手にもかかわらず、チームメイトから頭を叩かれまくるという手荒い祝福を受けたが、笑顔が途絶えることのない喜びの終幕となった。

 そして、すべてが裏目に出てしまった近鉄サイドは、当然の事ながら認めることのできない逆転劇に茫然自失。野茂にとっては、ほんの少し前まで「ノーヒットノーラン達成」という偉業への階段を上り詰めていたところから、一気に奈落の底へ落ちる最悪の結果へと転じてしまった。

悲劇から2年後――野茂は野球の本場で偉業を達成

投手というポジションは、それまでに積み上げていた成果を、たった1球で失ってしまう可能性を秘めている。この試合で、まさにその悲劇を味わい目撃した野茂は、その後、日本でのプロ生活で1度もノーヒットノーランを達成することなく、この年のオフに海を渡ってドジャースに移籍した。
 そんな野茂が、1996年7月のコロラド・ロッキーズ戦で、ホームランの出やすいと言われる高地のクアーズ・フィールド初のノーヒッターを達成してしまうのだから、野球はわからない。ましてや、2001年にはレッドソックスで2度目の達成までしてしまった。
 それは、一度、“天国”から“地獄”への急降下を味わいながらも、さらなる高みを目指して臆することなく挑戦を続けた者にだけ与えられる、“野球の神”からのご褒美だったのかもしれない。

(著者プロフィール)
キビタ キビオ
1971年、東京都生まれ。30歳を越えてから転職し、ライター&編集者として『野球小僧』(現『野球太郎』)の編集部員を長年勤め、選手のプレーをストップウオッチで計測して考察する「炎のストップウオッチャー」を連載。現在はフリーとして、雑誌の取材原稿から書籍構成、『球辞苑』(NHK-BS)ほかメディア出演など幅広く活動している。


キビタ キビオ