1989年は巨人が独走し、中日は夏場に盛り返してナゴヤ球場で対戦

どんなに完璧な試合運びをしていても野球はゲームセットになる最後の1球までわからない──。

 長いプロ野球の歴史のなかには、それを痛感させられる試合がときとして何度かあった。1989年8月12日、現在のナゴヤドームのように屋根も空調もない、熱さ全開のナゴヤ球場で起きた中日対巨人戦で起きた「天国から地獄」へ一転する物語も、そのひとつである。

 この年のセ・リーグの主役は巨人だった。開幕前のオープン戦では、打線が爆発していた中日が優勝候補の筆頭に挙げられていたが、いざふたを開けると、広島が好スタートを切って快進撃。だが、5月になるとその勢いに陰りが出始め、追いついた巨人が6月に抜け出した。それ以降は、首位を一度も譲ることなく巨人が勝ち続け、130試合制で引き分け再試合を行わない試合方式となった1969年以降、最高勝率となる.656でリーグ優勝を決めた。

 そんな“圧倒的に強い巨人”を象徴していた選手がふたりいた。ひとりは、この日の試合終了後の時点で打率.401を記録していたウォーレン・クロマティ。最終的には.378でシーズンを終えたが、規定打席に到達した8月後半になってもなお4割を維持し続けた功績と、リーグ優勝に大きく貢献したことが評価され、シーズンMVPに輝いた。
 そしてもうひとりは、この年大ブレイクしたサイドスロー右腕・斎藤雅樹である。1985年に12勝を挙げて以来、次代の主力投手として期待されながら、勝負どころで精神的な弱さが出ることもあって伸び悩んでいたが、斎藤をサイドスローに転向させた藤田元司が巨人の監督に再び就任して好影響をもたらしたのか、先発ローテーションに固定されると、抜群の安定感で投げる試合の多くを完投。5月10日の大洋戦から7月15日のヤクルト戦まで、4完封を含む11試合連続完投勝利という日本記録を樹立していた。

 一方、優勝候補になりながらも、開幕すると打線がさっぱり振るわず、まさかの下位発進となった中日は、夏場になってようやく本来の力を出し始め、7月の終わりに勝率を5割に戻し、貯金をし始めていた。
 投手陣では、前年まで巨人のエース格として活躍していた西本聖が、中尾孝義とのトレードで加入。西本は、それまで3年連続で2桁勝利から遠ざかっていたが、放出された屈辱をバネに新天地で伝家の宝刀・シュートのキレを取り戻し、この年、斎藤と同じく20勝を挙げて最多勝とカムバック賞をダブル受賞している。
 そのような背景があったなか、この試合は、斎藤と西本の先発でプレイボールが告げられた。

斎藤、西本の息詰まる投げ合いが終盤に崩れて9回へ

展開は予想通りの投手戦となった。
 斎藤は、7月21日の阪神戦で7回に降板して連続完投勝利の記録が途絶えたものの、オールスターを挟んで再開した後半戦で再び2試合連続完投勝利を挙げて、ナゴヤ球場に乗り込んでいた。そのストレートは、140キロ前半を常時記録しており、当時のサイドスロー投手のなかでは破格の威力があった。また、右打者の外角へストライクからボールゾーンに大きく曲がるスライダーも抜群の制球力を誇り、まともに打ち返せる打者は皆無に等しかった。それは、強力打線を誇る中日も例外ではなく、この日もなすすべがないまま、回が進む。
 一方、右打者のヒザ元へシュートで厳しく攻めて、内野ゴロを打たせるのが身上の西本は、毎回のように走者を出していたが、闘志をむき出しにするピッチングで後続を断ち、7回まで両者ゼロ行進が続いた。
 この日は、特に斎藤が絶好調で、7回まで4番・落合博満への四球と、ショート・川相昌弘のエラーによる出塁を許したのみ。得点板の「H(ヒット数)」を示す欄がずっと「0」のままであることから、回が進むごとに観客席からもどよめきが起き始めた。

 試合がようやく動いたのは、8回表だった。巨人は緒方耕一が三遊間を破るヒットで出塁すると、続く川相がレフトの頭上を越える三塁打を放って待望の1点を奪取。さらに、9回表には3番・クロマティ、4番・原辰徳の連続ホームランが出て、粘る西本をノックアウト。
 そして、試合は3対0で9回裏へ。いよいよ、斎藤のノーヒットノーラン達成は目の前に迫ってきた。

斎藤のノーヒットノーランまであとふたり!

9回裏、中日最後の攻撃。まず、最初に大歓声が沸いたのは、この回先頭の8番・中村武志が三振に倒れた場面だ。これで、ノーヒットノーランまであとふたり。斎藤の勢いを止められる者は、もはや誰もいないと思われた。頼みの綱である4番・落合博満を主軸とするクリーンアップにはもう回りそうにない。
 次は投手の川畑泰博の打順である。ここで、星野仙一監督が腰を上げて代打を告げたのは、左打ちの2年目外野手・音重鎮だった。
 音は、1年目から66試合に出場しており、この年も6月初旬までは1番や2番で時折スタメンに名を連ねていた。それが、夏場に一度二軍に落ちて、この日、一軍登録されたばかり。久々の出場でいきなり大記録達成間近の土壇場に放り込まれた格好だが、だからこそ、ある意味では他人事のように開き直って無心で打席に入ることができた。
 結果は初球を一閃! 内角のストレートを振りぬいたライナー性の打球がライト線へ落ちるヒットとなった。中村が三振したときなど比にならない大歓声がナゴヤ球場に響き渡る。斎藤のノーヒットノーランは「あとふたり」で藻くずと消えたのである。

 そうなると、にわかに慌てだしたのは巨人サイドである。斎藤は、この年こそ大ブレイクして、この時点で15勝をマークしていたが、前年まではむしろ気の弱い投手というイメージが見え隠れしていた。そうでないにしても、大記録が途絶えた直後である。中村稔投手コーチがタイムをかけてマウンドに向かい、チームメイトも集まった。
 だが、斎藤はそのイメージを自ら払拭するかのように、努めて笑顔を振りまいてナインを守備位置に戻した。まだ、ヒットを1本打たれただけのこと。後続を抑えれば3対0の完封勝利を収めることができる。続く1番の彦野利勝をセカンドフライに打ち取り、それは達成されるかと思われた。

 ところが、勝利の女神は中日に“色目”を見せる。最後の打者になるはずだった2番・川又米利は、低目の際どいストレートを見切って四球を選び、3番・仁村徹は、斎藤が厳しく攻めたインコースのストレートを得意のおっつけ打法で詰まりながらもセカンドの横を抜いた。このヒットで音が生還し、ついに点まで入ってしまった。
 これで1対3。2アウトとはいえ、走者一三塁で4番・落合に打順が回ってきた。ただ、この日の落合は、斎藤のストレートに力負けしており、普段から多い一塁側へのファウルを連発。四球で出塁した打席以外は、すべて右方向へのポップフライに倒れていた。この試合を中継していたアナウンサーですら、「もちろん、一発出ればサヨナラ……フフッ、ホームランなんてことになるんですが」と、鼻で笑うような息遣いの混じった言い方をしていたほどである。
 それが次の瞬間、現実のものとなってしまう。落合は初球のスライダーを見送ってボールになったあと、2球目にきた真ん中低めのストレートを、今度は力負けすることなくバットに乗せて、右中間スタンド最前列まで運びきったのだ。

 「ノーヒットノーランまで、あとふたり」から、ものの10数分で敗戦投手になるという悲劇。藤田監督はベンチに引き上げる斎藤に歩み寄り、ねぎらいの言葉をかけたが、呆然とする斎藤の耳には、とても届いているようには見えなかった。
 いまになって思い起こしても、斎藤の野球人生にとって、まさに絶頂期だった頃だが、それでも、ひとつ間違えればこうした「天国から地獄」へ転落することがあるのが野球である。それを思い知らされたシーンであった。

悲劇的な展開が野球ファンを魅了する

斎藤は、その後も活躍を続け、翌1990年にも20勝。2年連続で最多勝と最優秀防御率のタイトルを受賞。さらに3度の最多勝を上積みするなど、球史に残る大投手になっていったが、このときの経験があったからこそ、一度の栄冠に慢心することなく、貪欲に勝利を求めて投げ続けることができたのかもしれない。

 今年のペナントレースも残すところあとわずかだが、優勝やクライマックスシリーズ出場を争うチームの試合でこのような展開が起きれば、チームの進退におよぼす影響は大きい。
 選手にとっては、まさに選手生命にも影響しかねない「天国と地獄」の分かれ道だが、観戦する側としては、ぜひ、このようなしびれる感覚を抱ける試合に遭遇したいものである。

(著者プロフィール)
キビタ キビオ
1971年、東京都生まれ。30歳を越えてから転職し、ライター&編集者として『野球小僧』(現『野球太郎』)の編集部員を長年勤め、選手のプレーをストップウオッチで計測して考察する「炎のストップウオッチャー」を連載。現在はフリーとして、雑誌の取材原稿から書籍構成、『球辞苑』(NHK-BS)ほかメディア出演など幅広く活動している。


キビタ キビオ