甲子園で1試合3本塁打の実績を経てプロの世界へ

プロ野球選手は、アマチュア時代にさまざまな境遇のもとでプレーをしている。なかでも全国の精鋭が集まる大会で華々しい活躍をした場合は、大きな期待と注目が集まることは言うまでもない。
 平田良介(中日)は、その典型的な例だった。2005年夏の甲子園準々決勝。大阪桐蔭高校の4番打者だった平田は、東北高校を相手にしたこの試合で、1試合3本塁打を放って一気にその名を全国区のものとした。

 身長は公称177センチと、それほど大柄ではない。だが、幼い頃からの筋トレ好きが講じて筋骨隆々、全身バネのような瞬発力を幼少の頃から持っていた平田は、自由奔放という言葉がまさにふさわしいスタイルで伸び伸びと育ってきた。
 そして、大阪桐蔭高校へ進むと、その素質はさらに開花。1年秋から4番に定着して、翌春のセンバツで甲子園デビューを果たした。
 3年夏には、150キロの剛球左腕・辻内崇伸(元巨人)、投げては140キロ後半の速球に打っては特大のホームランを放つスーパー1年生・中田翔(現日本ハム)らとともに大阪桐蔭大躍進の原動力となり、先述の1試合3発によって甲子園ベスト4。秋のドラフト会議では、落合博満監督(当時)に高く評価された格好で中日から1位指名を受けて入団した。
 ここまでは、まさに順風満帆。しかも、平田は高校までに多くの選手が体験するような厳しい上下関係や理不尽な指導とは無縁の環境に育ってきた。まさに、“天国”のような野球人生である。
 
 ひとつだけ不安材料になっていたのは、夏の甲子園のあとに韓国で行われたAAAアジア選手権に高校日本代表の主力として出場した際、右肩を亜脱臼する故障に見舞われていたこと。ドラフト会議で中日から1位指名を受けた時点では、まだ、その故障は癒えておらず、1年目のキャンプは別メニューでのスタートになったことくらいだろうか。
 とはいえ、元来は強肩であり、強打に加えて、俊足でもある。さらに、甲子園で観客の度肝を抜く活躍をした大舞台の強さがあれば、ほどなく一軍の主力として台頭してくるだろう。多くのファンや関係者、そして平田自身でさえ、そう考えていたにちがいない。

順調に見えたプロでのすべり出しに暗雲が

だが、実際にプロの世界に足を踏み入れてみると、現実はそう甘くはなかった。確かに、3年目までの平田は、順調に成長への道を突き進んだ。1年目の前半は故障のリハビリを平行しながらの調整を余儀なくされたが、夏頃にはほぼ完治。8月には“体験昇格”的な意味合いで一軍に呼ばれ、代打で2打席ほど経験もしている。
 また、2年目には状態が良いときに一軍に呼ばれるようになり、特に日本ハムと対戦した日本シリーズでは、当時、主軸だった福留孝介(現阪神)が故障離脱した穴を埋める格好で出場。1対0で勝利して中日の日本一を決めた第5戦では、その唯一の得点となる犠牲フライをダルビッシュ有(現レンジャーズ)から放っている。

 こうした、勝敗の分け目に遭遇する運命的なめぐり合わせによって、瞬く間にレギュラーに上り詰めるというのは多々あるケースである。実際、3年目の平田は、シーズン後半から一軍に完全に定着すると、59試合に出場して打率.268を残し、9月7日の横浜戦で横山道哉からプロ入り第1号となるサヨナラホームランも放っている。
 大歓声が飛び交うなかでヒーローインタビューに答える平田の姿に、「以後のレギュラー定着はほぼ確定的」と思ったファンは多かったはずである。だが、4年目の2009年以降、平田の“上昇カーブ”は頭打ちとなり、むしろ下がる方向へ推移していく。

出場機会が減り背番号「40」に降格

平田が低迷した原因はいくつかあった。ひとつは故障が絶えなかったこと。入団時に痛めた右肩痛の再発や、足首、ふくらはぎ、腰など、シーズン中に故障に見舞われ、その都度、ファームに行かざるを得ず、蓄積されたものがリセットされた。
 また、甲子園で光を放ったバッティングも、プロでは至難を極めた。短期的に数字を残すことがあっても、長く続かない。
高卒の選手がプロの世界をいきなり体験して驚かされるのは、同じ140キロのストレートでも手元で差し込まれるようなボールの伸びであり、変化球を含めた失投の少ないコントロールの精度の高さ、また、タイミングをはずす間のとり方の巧さなどであるという。平田も高校時代とのレベルの違いに苦労し、壁にぶつかった。

タイミングのとり方は一本足であったり、すり足であったり、コロコロと変わっていく。その都度、短期的に修正がなされ、しばらくは結果が出るが、再び打てなくなって悩む……。その繰り返しが続いたことで、自分のバッティングを完全に見失ってしまった。結果が出ない焦りがさらなる低迷を呼び込み、平田のプレーは精彩を欠くものになっていった。
 そして、2010年シーズンは平田にとって屈辱的なシーズンとなる。一軍での試合出場はわずか5試合に留まり、オフには背番号が「8」から「40」に変更にされると球団から言い渡されたのだ。遠回しに「このままだと、あとはない」という“通告”を突きつけられ、平田はプロの世界の本当の意味での厳しさ、非情さを大いに痛感した。

 このとき、甲子園で活躍したときからすでに5年の歳月が過ぎていた。入団時に平田と同じく高卒ルーキーとして中日のユニフォームに袖を通した春田剛、高江洲拓哉、金本明博の同期たちは、3年目までに平田を除いて全員クビになっている。
こんなはずではなかった。このままでは自分も……。
 自由奔放なスタイルが持ち味の平田だったが、この頃は心身とも落ち込むことが多く、ふと「もう、辞めてしまおうか」と思ったこともあったそうだ。

2試合連続サヨナラ弾で前向きな気持ちへ

そんな“地獄”に直面していた平田にわずかな光明が見えてきたのは、翌2011年のことだった。背番号「40」の選手として、背水の陣で挑んだこのシーズン。開幕は二軍スタートとなったものの、程なく一軍に昇格すると、6月4日の西武戦、翌5日のロッテ戦で2試合続けてサヨナラホームランを打ったのだ。この勢いに乗じて、しばらくの間、好調を維持した平田は、6月の月間MVPを受賞。シーズンを通して113試合に出場し、打率.255、11本塁打という成績を残した。自身初となる100試合以上の試合に出場できたことは、少なくとも、気持ちのうえで「頑張れば一軍で通用する」という感触を得ることができた。

 もちろん、プロの世界はそれだけで状況を一気に好転させるのは難しい。その後は、一軍にほぼ定着するようになったものの、故障やバッティング技術への試行錯誤はつきることがなく、平田の成績は一進一退の結果が続く。2012年は91試合で打率.216、11本塁打、2013年は118試合で打率.289、15本塁打。ただ、この頃になると、徐々に「好調のときには、体がコマのように軸回転で鋭く回れて、長く投球を見て引きつけられる」という本質的な感覚を見出すようになり、それを維持するための方策を模索するようになっていた。

 そして、背番号は「40」から巨人に移籍した井端弘和の「6」となり、再び1桁となって挑んだ2014年は、119試合で打率.277、11本塁打。前年よりやや数字は落ちたが、プロ入り初となる規定打席に到達した。甲子園で1試合3発を放ちって鳴り物入りしたドラフト1位選手としては、かなり回り道をしての規定打席到達と言わざるを得ず、また、この頃になると4番に入ることも多くなり、打線の中軸と呼ばれるには数字的にもまだ物足りなさがあるのは否めなかったが、平田は前向きにチャレンジを続けた。

感覚派からの離脱でようやく自分の打撃をつかんだ

そうして迎えた2015年11月。プロ入り10年目のシーズンを、2年連続で規定打席に到達しての129試合出場、打率.281、13本塁打で終えた直後の秋。平田はようやく自分の打撃技術に対して確固たる自信を得る機会に恵まれた。日本シリーズ終了後に日本で開催された世界野球WBSCプレミア12である。
 この国際大会で侍ジャパンの主力として8試合に出場した平田は、打率.423、6打点という好成績を挙げた。この活躍は、シーズン中から不調期に入ったときに、その原因がどこにあるのかを具体的に自己分析して早期修正する方法をようやくつかんだことによる賜物ではあったが、世界の見知らぬ選手を相手に対しても力を発揮できたことが、メンタル面で大きなプラスとなった。

 考えてみれば、子どもの頃から高校時代まで、野球については常に自分の好きなように、まさにプレー(遊び)感覚で動いて結果を出してきた。「なにかオモロイことをやったる」という姿勢は、相手の隙をつく走塁や、カンの鋭い外野守備、さらに大舞台で物怖じせずにプレーできるメリットにつながった反面、ことバッティングに関しては感覚ばかりが先行してしまっていた。それはプロに入ってからも同様で、たとえば一時期、打席で構える前に大きく背中を反らせるルーティーンを行っていたが、これは深い意味はなく、単に「気持ちがいいから」という理由に過ぎなかった。
 ところが、現在行っている、構える前に左手でバットを立ててしばらく静止するルーティーンは、打席での立ち位置を常に同じにするためのもので、ゴルフでいう「アドレスする」ようにバットの向こうに定めた目標に合わせて自分の目線と体のラインをしっかり決めるために行っている。些細なことではあるが、こうした意識の変化の積み重ねが、成果につながっていったと言っていいだろう。
 甲子園での活躍で一度は“天国”に上り詰めたが、プロで壁にぶつかり長く味わった“地獄”。平田はようやくそこから這い上がり、次のステップへ進みはじめたのである。

プロとして本格的に成熟し“天国”を目指す

2016年。平田は中日のキャプテンに指名され、低迷脱出に向けたチームの舵取りも担う立場となってシーズンに臨んだ。チームのためになることを考えてプレーし、時には感情的になったこともある。
 だが、結果として、中日が下位から浮上することは叶わず。自身も股関節の故障や右肩の故障などに見舞われ、戦線離脱を余儀なくされた。打撃成績も、自己最多の73打点を挙げたことはひとつの成果だが、決して手放しで満足できるものではない。目指すところは、もっと高いレベルなのだ。ここまで到達するのに長い時間を要したが、平田はようやく自分のバッティングをつかんだばかり。今後、さらに大きく飛躍する可能性を秘めている。

 8月には国内フリーエージェントの権利を取得。自分の意志で他球団へ移籍することができる立場になったが、果たしてオフにどのような選択をするのだろう。選ぶ道は天国へと続くか、はたまた再び地獄か――。
まだまだ、平田良介という選手から目が離せそうにない。

(著者プロフィール)
キビタ キビオ
1971年、東京都生まれ。30歳を越えてから転職し、ライター&編集者として『野球小僧』(現『野球太郎』)の編集部員を長年勤め、選手のプレーをストップウオッチで計測して考察する「炎のストップウオッチャー」を連載。現在はフリーとして、雑誌の取材原稿から書籍構成、『球辞苑』(NHK-BS)ほかメディア出演など幅広く活動している。


キビタ キビオ