開始4時間前からファンや報道陣が集結
2016年7月15日――平日の午前10時過ぎ、花園中央公園球場には既に観客の列ができはじめていた。スタンドの通路には報道陣がずらり。第一試合のチームには申し訳ないが、これらの人々のほとんどは約4時間後の第二試合、PL学園と東大阪大柏原の試合がお目当てだろう。ご存じの通り、今夏限りで休部状態となるPL学園の初戦。相手は5年前の甲子園出場校。みな、「もしかしたら、これがPLのユニフォームを見られる最後の試合かもしれない」と感じたにちがいない。
春夏合わせた甲子園出場は37回。優勝は春3回、夏4回。桑田真澄と清原和博の“㏍コンビ”を筆頭に、日本のプロ野球史に残る名選手をキラ星のごとく輩出。「逆転のPL」の異名が象徴する、甲子園で見せた名勝負の数々。全国屈指の名門……いや、名門という言葉を通りこして、高校野球の代名詞、伝説的存在とも言えるPL学園が、新入部員の受け入れ停止を決めたのは2014年秋。あらたな部員が不在になることで、野球部は2014年に入部した生徒が最上級生となる2016年夏を最後に休部状態になると報道された。
そこには部内暴力など度重なった不祥事、それによる指導者の辞任と野球経験のある監督の不在といった背景があった。当然、募集再開を求める声やそれにまつわる活動もあったが、結局、報道された内容の撤回、受け入れ復活には至らなかった。かつて高校球界を席巻したチームとは思えない状況。しかし、球場で3年生12人しかいないPL学園を目の当たりすると、それが現実だと痛感する。
第二試合のシートノックがはじまるころになると、スタンドはほぼ満員となった。バックネット裏には吉村禎章(元巨人)、宮本慎也(元ヤクルト)などOBが顔を連ねる。「甲子園は清原のためにあるのか!」の名実況で知られる元朝日放送のアナウンサー・植草貞夫や高校野球マニアで知られる芸能人の姿もあった。そして試合はプレーボールの時間を迎える。
最後に「逆転のPL」の片鱗を見せたナインたち
一回表、PL学園は2死二、三塁から6番・安達星太が2点タイムリーを放ち先制する。だが一回裏、PL学園の先発・藤村哲平は制球に苦しみ、すぐさま同点にされると2回裏にも満塁のピンチを招く。ここで投手交代。主将で捕手の梅田翔大がマウンドへ向かう。しかし、梅田も適時打を浴び、捕逸も重なってPL学園は3点を奪われた。5-2で東大阪大柏原リード。その後もPL学園のピンチが続く。「やはり厳しいか……」と多くの観客が思ったが、PL学園は6回表に2点を返し、7回表にはマウンドを降りた藤村哲平が名誉挽回と逆転2ラン。6-5と試合をひっくり返した。戦前は「PLのコールド敗戦もあり得る」といわれた試合での劇的な一打は、まさに「逆転のPL」と観客席が沸く。だがその裏、東大阪大柏原は同点に追いつき、8回には7−6と勝ち越して。そのまま試合は終わった。
泣き崩れるPL学園ナインに報道陣が集まる。応援席からは別れを惜しむようなPL学園の校歌。試合後の球場は異様な空気に包まれた。全盛期を知るファンにとっては寂しい試合だっただろう。しかし、梅田を筆頭に各々の精一杯を出して戦っている選手たちの気持ちは痛いほど伝わってきた。それはPL学園の名に十分ふさわしいものだったと思う。
一方、PL応援ムード一色の球場で、東大阪大柏原はさぞかしやりにくかっただろう。一回表のボール回し、ショートとセカンドはボールが手につかず握り直して送球していた。その後、東大阪大柏原の先発・平田啓吾は2番・原田明信に頭部死球を与えてしまう。スタンドにも緊張が伝わってくる。だが、平田はそこから大きく崩れることはなく、自分の仕事に徹して完投勝利。「前日、最も調子がよかった」と東大阪大柏原の浅黄豊次監督が試合後に先発起用の理由を明かしたが、おそらくメンタルの強さも買ったのではないか。一時は逆転されるも慌てずに残り少ないイニングできっちり再逆転、勝利を手にした打者陣の攻め見事だった。
強い精神力や野球の力を育む厳しい目
関西での高校野球観戦で感じるのは、こうしたメンタルの強そうな選手が目立つことだ。
周囲のプレッシャーもキツい。バックネット裏に座っていたのは、10時頃から球場を訪れていた、おそらく熱心なファン、野球好きの人々。耳に入ってくる言葉を聞いていると、彼らの多くもPL学園贔屓のようだった。きっと最後となるかもしれない姿を見に来たのだろう、一つひとつのプレーに大きな拍手を送っている。が、その一方で容赦もない。
「なんでこの場面でボール球に手ぇ出すねん」
「ここでキッチリ送れんあたりが弱さやな」
「なんやいまの中途半端な高さのボールは。あとで痛い目みるで!」
とてもこの日で歴史が終わるかもしれないチームへの言葉とは思えない。しかし、その後にアウトをとったりヒットが出ると、手のひらを返したかのように、すぐに大きな拍手を送る。
キツい言葉はよくあるファンの結果論ヤジのようにも思えるが、これがけっこう的を得ていたりするから面白い。同情的感動ムードに包まれていた球場だったが、「それはそれ、野球は野球」と言っているような感触。関西の野球は、こうした厳しい目、肥えた野球眼に、幼い頃から日常的にさらされて強くなっていき、その象徴にして頂点がPL学園だったのかもしれないと、ふと思った。
PL学園と真逆の方針をとった大阪桐蔭
PL学園の休部を招いた最初のきっかけは、“厳しい寮生活”“付き人制度”に象徴される体育会系的な上下関係が根っこにある暴力事件といった“ひずみ”であった。学校側はその体質改善に務めたが、不祥事は続いてしまい一掃することはできなかった。
こうしたPL学園を見て、真逆の方針をとったというのが、現在の高校球界の盟主といっても過言ではない、大阪桐蔭である。大阪桐蔭は「PL学園に勝つにはどうしたらいいか?」と考え、至った結論のひとつが「時間を確保すること」だったという。つまり、PL学園の1年生が厳しい上下関係のもと“付き人制度”で雑用に追われている時間、大阪桐蔭は1年生を練習させようと考えたのだ。そのためにはPL学園の1年生がしているような雑用を、上級生も平等に分担しなくてはならない。結果、大阪桐蔭は、たとえばユニフォームの洗濯にしても自分の物は自分で行うようになった。
PL学園のOBたちは、かつての厳しい野球部、寮での生活を苦しくもどこかうれしそうに、懐かしそうに語る。そして「厳しい生活を耐えたから、その後の成長があり、いまがある」といったニュアンスの言葉ももらす。この感覚はPL学園に限ったことではないだろう。かつての強豪校と呼ばれるような野球部では、中身や程度に差こそあれ、似たような話はよく耳にする。いや、別に野球の強豪校に限らず、多くの体育会系と呼ばれる部活経験者には大なり小なり共感できることかもしれない。それはそれでウソはなく、ある種の方法論ではあるのだろう。厳しい叱責やシゴキに耐えたことが自信になり、成長へつながっていく、というわけだ。
しかし、時代は変わった。そうしたある種の方法論も、昔のままでは曲がり角というか、時代に合わなくなってきていることは、昨今の部活事情、スポーツ界を取り巻く環境、あるいは教育環境や社会の空気をみれば明白だろう。今回のPL学園の一件と、現在の大阪桐蔭の隆盛は、その象徴のように見えなくもない。
日本の伝統的体育会系文化の変わり目
関西出身者からは、たまに「暴言こそ愛」的な話を聞くことがある。バックネット裏でPL学園に辛辣な言葉と温かい拍手を交互に送っていたファンの姿は、そのひとつの例だったのかもしれない。極端かもしれないが、かつての体育会的厳しい上下関係、叱責やシゴキを甘美な思い出として語られる言葉には、そこに通じる要素も感じる。高圧的なプレッシャーに耐えて育まれた強い精神力。繰り返すが、それはそれで“アリ”の方法論だったのだろう。ただ、時代に合わなくなった、という話である。強い精神力は、その他の方法でも鍛えられるし、育まれる。それは大阪桐蔭出身の選手たちの活躍を見れば一目瞭然だ。
もちろん「暴言こそ愛」という文化そのものを完全否定するつもりはない。この言葉の正しい意味は、非常に高度かつ粋なセリフや、素直になれない感情の表現、笑いの構造、会話のやりとりを示すものだろう。また、そうした言葉を上手に使って人をやる気にさせたり、負けん気を刺激したりすることもあるはずだ。問題は、それが歪んで生まれる度をこした上下関係、暴言、暴力、プレッシャーであり、その行為や状況にいまの時代は過去よりもずっとデリケートで、厳しい目が注がれるということである。その点で、考えすぎかもしれないがPL学園の休部問題は、単なる野球におけるひとつの時代の終わり以上の、文化の変わり目を感じるのだ。
ともあれ、PL学園の硬式野球部はこれでいったん休部となる。様々な状況を聞くにファンが望むほど復活への道も簡単ではなさそうだ。ただ、それとは関係なしに、大人の事情に振り回され、下級生がおらず、好奇の目にさらされながらも最後まで精一杯戦ったPL学園の選手たちだけには、もう一度、混じりっ気なしの大きな拍手を送りたい。
(著者プロフィール)
田澤健一郎
1975年、山形県生まれ。大学卒業後、出版社勤務を経て編集・ライターに。主な共著に『永遠の一球』『夢の続き』など。『野球太郎』等、スポーツ、野球関係の雑誌、ムックを多く手がける元・高校球児。