【「巨人はロッテより弱い」騒動から28年…】

 「よっしゃああ巨人勝ったぞぉぉ!」

 89年10月25日午後、少年ジャンプとファミコンとプロ野球が人生のすべてだった10歳の俺は後楽園ゆうえんちにいた。小学校の遠足である。埼玉のド田舎からバスに揺られて読売新聞社や後楽園ゆうえんちを巡る1989年東京の旅。その帰りの車中でデーゲームの結果をラジオで聴いたクラスメートの誰かが叫んだ。お弁当のプチダノンっておやつ代300円にカウントされないんですかぁー…じゃなくて、香田の完封で崖っぷちの巨人が勝ったと。

 そう自分たちがジェットコースターに乗っていた頃、その隣のまだ屋根も白くピカピカだった東京ドームでは、巨人vs近鉄の89年日本シリーズ第4戦が行われていたのである。この後、藤田巨人は原辰徳の劇的な満塁弾やMVP駒田徳広の活躍で3連敗からの怒濤の4連勝で8年ぶりの日本一に輝くことになるが、すべてはあの日の完封勝利から始まったのだ。だから25年以上経過した今でも遠足の日付までハッキリと思い出すことができる。

 とは言っても、人の記憶とは悲しいくらいに曖昧だ。こっぴどくフラれたおネエちゃんも、いつの間にか自らフッた武勇伝になってるあの感じ。甘い記憶はいつだって時間の経過とともに自分の都合のいい事実に変えられてしまう。今回のコラムを書くために、『Number VIDEO 熱闘!日本シリーズ 1989 巨人vs近鉄』をDVDで見返したら、意外なほど忘れていた事実の数々に気付くことができた。このシリーズと言ったら、やはり第3戦で好投した近鉄先発・加藤哲郎の「巨人はロッテより弱い」発言を思い出すファンは多いと思う。と言っても、実際の映像を見るとお立ち台での正確な発言はこうだ。

「まぁ打たれそうな気しなかったんで。まぁたいしたことがなかったですね。もちろんシーズンの方がよっぽとしんどかったですからね。相手も強いし」

 さらにベンチ裏でのコメントも「日本シリーズ、日本シリーズって言われますけど、あんまり特別かしこまった雰囲気っていうのはチーム全体にもないですし、自分でも言うたらオープン戦の延長みたいなね。そんなたいしたもんかなぁみたいな」と深夜番組『いか天』に出てくる売れないロックシンガーばりに生意気なのは確かだが、「ロッテより弱い発言」は確認できない。今のようにTwitterやインスタがあれば選手自ら否定もできるが、当時は記者から例えば「ロッテより弱い?」と誘導尋問されて一度記事にされたら否定する場所すらなかった。

【知られざる第4戦の香田勲男のお立ち台発言】

 全7試合を通して観ると恐らく加藤だけではなく、バファローズ全体に「ジャイアンツがナンボのもんじゃい」的な空気があったのではないだろうか。第1戦のヒーローインタビューでも、近鉄の故・鈴木貴久は「(相手先発の斎藤雅樹は)今日はそんなにボールのキレがなかったと思いますね。もう打った瞬間入ると思いました」とドヤ顔でガチすぎるコメント。当時のマスコミは巨人のことばかり騒いでいる。テレビ中継も巨人戦だけ。パ・リーグを舐めんなよ。俺が近鉄の選手ならそう思うだろう。

 そして、映像を確認すると驚くべきことにあの第3戦で先発した加藤哲郎は、なんと藤井寺球場での第2戦の6回表にも2番手のワンポイントとしてマウンドに上がっていた。ピンチで中尾孝義をあっさり3球で遊ゴロに打ち取り、舞台を東京ドームに移した第3戦では6回1/3を3安打無失点の好投だ。25歳の若者が「まぁたいしたことがなかったですね」と言ってしまうのも無理はない。そらそうよ、当時のチームメイト金村義明の言葉を借りると「お立ち台慣れしていない奴が興奮でイキってる」状態である。

 話しを10月25日の第4戦に戻そう。崖っぷちの巨人を救う3安打完封勝利、たった1日で人生を変えてみせた24歳の香田勲男だが、試合後のお立ち台で実はこんな発言をしている。

 「かなりね、近鉄の選手がねぇ、ジャイアンツがちょっと弱すぎると。そういうコメントが多かったもんですからね。このままじゃジャイアンツの名がすたると思って踏ん張ってみました」

 前日の加藤発言に対する巨人を舐めるなよ的なアンサーインタビュー。まるで早すぎたMCバトルin日本シリーズだ。後年、香田は「日本シリーズで完封。おまけに次の年に2ケタ勝ったりしちゃった。勘違いしちゃったんです。柱の人たちと並んだつもりになっていた」と現役時代のターニングポイントとして第4戦の自身の快投を振り返っている。

 この後、低迷した香田は95年オフ近鉄に移籍して、2年後には初のオールスター出場まで果たすことになるのだから人生は分からない。 

【球史を変えたブライアントの爆発力】

 思えば89年日本シリーズ、近鉄の最注目選手はシーズン49本塁打を放ったラルフ・ブライアントだった。10月12日、リーグ4連覇中の西武ライオンズとのダブルヘッダーで4打数連続ホームランを放ち王者を粉砕。当時、ビックリマンシール禁止令が出ていた小学校の教室では、渾身の直球を弾き返され呆然とマウンドに膝をつく渡辺久信のモノマネ合戦が流行ったほどだ。

 ブライアント本人も「一生忘れられないゲームだよ。ワタナベから放った初めてのホームランだったから、ものすごく印象に残っている。彼だけはどうしても苦手で打てなかったんだ」と興奮気味に語る伝説の4連発。ちなみにもしもこの年の西武が優勝していたら、85年から94年まで巨人のV9を上回る10連覇を達成していたことになる。いわばこの男の爆発力は球史を変えたのである。

 ブライアントは前年の88年6月末、外国人枠の関係で中日2軍暮らしが続いていたところを、大麻所持で逮捕されたリチャード・デービスの代役を探す近鉄が金銭トレードを申し込み獲得した左の大砲だ。すると74試合で34本塁打と驚異的なペースで本塁打を量産。あの「10.19」の悲劇で惜しくも優勝は逃したものの、最強助っ人として翌89年の近鉄躍進の立役者に。規格外のパワーで、本塁打王とMVPに輝いた。

 だが、日本シリーズでは第2戦で2敬遠1死球と徹底的にマークされ、第5戦で斎藤雅樹から1号アーチ放ったものの、6戦以降は計8打数無安打と巨人投手陣に完全に抑え込まれる。結果的に、巨人3連敗4連勝の最大の要因は「ブライアントを爆発させなかったこと」と言われるほどにシリーズの鍵を握っていたわけだ。

【球団の納会にも出席した愛すべき助っ人】

 そのエディ・マーフィ似の明るいキャラクターは誰からも愛され、中畑清や宇野勝らとともにサッポロビールのCMにも出演。トレンディエース阿波野秀幸も思い出の助っ人選手としてブライアントの名前を挙げ、「いいヤツで面白かった。今の野球界じゃあり得ないかもしれないけど、昔はブライアントも球団の納会とかに出ていたもんね。アイツも一緒になって、寒い中でゴルフしてた」と回想。あの頃、プロ野球に熱狂した少年たちにとっては両腕を天空に突き上げるポーズと言えば、いまだにバリー・ボンズよりもラルフ・ブライアントだ。

 個人的に印象深いのは当時、ブライアントは大阪市の阿倍野に住み、近鉄電車に揺られ藤井寺球場へ通っていたというエピソードだ。実は90年代の終わり頃、自分も阿倍野で一人暮らしを始め、毎日近鉄電車に揺られ、大阪の片隅のとんでもないド田舎の大学まで通う日々。MDウォークマンでザ・ハイロウズを聴きながら、近鉄カラーに塗られた電車の車窓から藤井寺球場を眺めては、ド迫力のいてまえ打線やあの1989年の日本シリーズのことを思い出した。

 すでに後楽園ゆうえんちは東京ドームシティアトラクションズと名を変え、近鉄バファローズはもう消えてしまったけど、あの奇跡のようなブライアントのホームランの弾道は死ぬまで忘れることはないと思う。

 See you baseball freak…


(参考資料)
『Number VIDEO 熱闘!日本シリーズ 1989 巨人vs近鉄』(文藝春秋)
週刊ベースボール2015年6月22日号(ベースボール・マガジン社)
ベースボールマガジン9月号 懐かしき外国人助っ人たち(ベースボール・マガジン社)
元・巨人(矢崎良一著/廣済堂文庫)

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