横綱になった者にしかわからないこと

横綱は、言わずと知れた大相撲の最高位。しかし、実はその歴史はそれほど古くはない。相撲は1500年以上の歴史があるとされるが、番付に初めて横綱という地位がのったのは1890年。歴史的に相撲の最高位は大関で、役力士は大関以下、関脇、小結の3つとされてきた。役力士を三役と呼び、千秋楽の結びの一番から前三番を「これより三役」というのは、このためだ。大関の中で最も強い力士が綱をまいて土俵入りをする、それを横綱と呼んでいたことに由来する。
現在の制度では、どれだけ負け越しても番付が落ちないのは横綱だけに与えられた特権。
言い換えると、大関まではその先の番付を目指して「前に前に」進んでいけるわけだが、横綱の前には「引退」の二文字しかない。
さらに平幕に不覚をとると金星を配給することになる。なぜ配給と書いたかというと、金星をあげた力士には場所ごとに支払われる褒賞金(ボーナスのようなもの)が加算されるからだ。横綱は自らの成績が協会の財政にも影響を及ぼすほどの地位と言うことになる。
だからこそ歴代の横綱は「横綱になった者にしかわからない」という言葉を残してきたわけだ。

桜が散るがごとく

「体力の限界、気力もなくなり引退することになりました」
1991年5月14日。ウルフの愛称でお年寄りから子供まで多くの人たちを魅了した昭和の大横綱、第58代横綱・千代の富士は、こう言い残して土俵人生にピリオドを打った。
文字で書けばわずか23文字だが、「体力の限界」といった後にしばらく言葉が出ず、涙というか鼻汁というか男の汗というか、なんと表現していいかわからない嗚咽のようなものをこらえて、必死に絞り出した言葉が「気力もなくなり引退することになりました」という言葉だった。31回の優勝を誇る千代の富士にとって「気力がなくなる」という言葉を発することがどれだけ苦しいことだったか。わずか数秒の間合いが、それを強烈に印象づけた。最後の優勝となった平成2年九州場所からわずか3場所後のことだった。

そのちょうど20年前の1971年5月14日。希代の横綱が土俵に別れを告げている。
第48代横綱・大鵬、優勝32回を誇る大横綱だ。残念ながら私は大鵬の現役時代をリアルタイムで見ていない。大鵬親方になって晩年、何度か取材させて頂いたが本当に緊張したことを覚えている。知識が足りず厳しい言葉をもらったこともあったが、現役の横綱のことをいつも気にかけていたのを思い出す。病と戦い鼻に酸素吸入のチューブをつけながらも、土俵の稽古を見守る姿はまさに大横綱の迫力だった。大鵬が引退を決意したのは、32回目の優勝からわずか2場所後だった。

同じく最後の優勝から2場所後に引退したのが第44代横綱・栃錦だった。
春日野理事長として長く相撲協会の運営を引っ張っていったことでも有名だが、ライバル若乃花とともに築いた栃若時代。当時の取り組みを映像で見ると、スピードも技の切れも力強さも、どれも抜群である。しかし、横綱の引退は「桜が散るごとく、惜しまれながら」と師匠に教え込まれていたという有名な逸話の通り潔く身を引いた。

茨の道を歩んだ横綱も

真逆に土俵に上がり続け負け越しを経験した横綱もいる。
第62代横綱・大乃国と第66代横綱・若乃花だ。
大乃国の師匠は理事長も経験した元大関・魁傑の放駒親方、「休場は試合放棄と一緒」と土俵に上がり続けることこそ力士のつとめと説いた名力士だった。親方や理事長としてたびたび取材したが、逃げずに立ち向かうまさに「漢」だった。
いくら横綱でも親方は師匠であり親父、自らは弟子である。かくして大乃国は1989年秋場所で15日制が定着してから初めて負け越した横綱という不名誉を背負うことになった。大乃国は負け越したあと、引退届を持って当時の二子山理事長のところに行くが「初心に戻れ」と突き返されている。
自ら引退もできない・・・。そのときの大乃国の心境は、歴代の大横綱でも想像がつかないものだったに違いない。
しかし、この場で知ってもらいたいのは、その後の大乃国である。休場を繰り返し「最弱の横綱」などと陰口をたたかれても再起を期し、1年半後の1991年春場所で12勝3敗の成績で優勝に準じる成績を残している。引退はその2場所後。もういちど強い姿をファンの目に焼き付けて土俵を去っていった。横綱の意地とプライドを最後まで持ち続けた、まさに大乃国の生き様だった。

稀勢の里の引き際

稀勢の里が新横綱の場所で左胸に大けがをして、その後途中休場も含め8場所連続で休場したことはご記憶の通りだ。去年の秋場所で10番勝ち、なんとか体裁を整えたが横綱として合格点がついたのは新横綱の場所1場所だけだ。
稀勢の里が選んだのは横綱としての茨の道。
横綱審議委員会からも相撲協会の執行部からも、そしてファンからも、最初は温かく見守られてきた日本出身力士待望の横綱も、さすがに徳俵まで追い詰められた。なぜ稀勢の里は土俵に上がり続けるのか。綱としての意地か、それとも何かやり残したことがあるからか。稀勢の里が土俵に立ち続けている間はその理由を語ることはないだろう。
ただ、ファンはその姿を見続けている。勝ち負けを越えた引き際を。ここまで来たら運命の日まで稀勢の里の相撲道を貫いてほしい。そして、無数のフラッシュの前に立つそのときに、自らの美学を語ってほしい。その日まで私は見守り続ける。


羽月知則

スポーツジャーナリスト。取材歴22年。国内だけでなく海外のスポーツシーンも取材。 「結果には必ず原因がある、そこを突き詰めるのがジャーナリズム」という恩師の教えを胸に社会の中のスポーツを取材し続ける。