微妙な雰囲気に多くの苦情

 7月の名古屋場所を両膝のけがで休んだ貴景勝。今場所も万全ではない様子がさまざまな場面で見受けられた。千秋楽、十両の取組の途中で行われた恒例の協会あいさつ。列席した貴景勝は引き揚げる際に土俵を降りたり花道を歩いたりする一つ一つの動作の慎重さが目立った。ただ、体調のことを注文相撲の根拠に関連づけるのなら、熱海富士のけがの具合にも言及しないと不公平だろう。また、勝負のために土俵に上がった時点で言い訳はできないというのが力士のさだめでもある。

 本割は関脇大栄翔を突き、押しの応酬から送り出した。そして11勝4敗同士の決定戦。立ち合いで左に変わりながら、思い切ってはたいた。本人は優勝インタビューで「右差しを徹底して封じようと思いました。集中してやるべきことをやりました」と説明した。右手は雄弁に物語り、すぐさま相手の頭を徹底的に押さえ付けにいっていた。大相撲はアマチュア相撲とは異なり、プロによる興行という側面がある。今場所ナンバーワンを決する取組での物足りなさは、お金を払って両国国技館を訪れた観客の、拍手の中にため息も交じった微妙な空気感や、日本相撲協会に寄せられた多くの苦情に象徴されていた。

 もちろん、以前にも同様に優勝決定戦で立ち合いの変化で勝負がついたことがある。例えば2002年初場所で新大関栃東が大関千代大海に対して注文相撲で勝利し、初優勝した。このときも批判は起きたが、お互いに大関同士。成績も13勝2敗で、翌場所は綱とりと認定されていた。今回は大関の相手の熱海富士が若く、前頭15枚目とかなりの下位ということが波紋を広げる一因となった。昇進問題を預かる審判部の佐渡ケ嶽部長(元関脇琴ノ若)は端的に指摘した。「決定戦でああいうのは見たくなかったですね」。来場所が綱とり場所かどうかの明言を避けた。現代ではインターネットが発達して誰もが発信者になり得るゆえに、従来よりも立ち合いの変化について意見を主張し合う渦も大型化していった。

トレーニングセンターにあらず

 神事でもある大相撲は、スポーツとしての相撲とは一線を画す部分がある。勝ち負け以外にひたむきに競技に打ち込む姿勢、卑怯な手を使わずに真っ向から挑んでいく闘志―。日本人が大切にしてきた精神性もリンクし、大相撲の存在意義を支えるポイントとなっている。

 大相撲の朝稽古でかつて、次のようなげきを耳にしたことがある。「おい、〇〇(関取の本名)、ここはトレーニングセンターじゃないんだぞ。勝ちたいという思いが自分のやりたいことを消してしまうんだ」。番付が上にもかかわらず、勝ちにこだわる余り、稽古でも引いたりはたいたりする取り口が目についた力士に対し、意識改革を促す厳しいアドバイスだった。声の主は当時の貴乃花親方(元横綱)。2013年春場所前、他の部屋との合同稽古での一幕だった。正々堂々の構えが見ている人の心を打ち、相手から逃げるように勝ちにこだわることを戒めるような口調。トレーニングセンターという単語を引き合いに出した点に、スポーツという要素だけではない大相撲を背負ってきたプライドが漂っていた。

 貴景勝は小さい頃から憧れを持ち、貴乃花部屋に入門した。親方の退職により2018年10月から現在の常盤山部屋へ移ったが、しこ名にも表れているように横綱貴乃花への強い憧憬が垣間見える。大関昇進時、伝達式の口上では普段から意識しているという言葉を用い「武士道精神を重んじ」と決意を表明した。今回の決定戦の取り口はその言葉とは相容れず、それほど熱海富士の勢いを警戒していたと捉えられる。

 大相撲とスポーツの違いという観点で、秋場所後の横綱審議委員会(横審)では興味を引く発言があった。山内昌之委員長(東大名誉教授)は次のように貴景勝を評価した。「優勝にこぎ着けた。この事実こそが大事だ」。捉え方によっては、結果が全てというふうにもとれる。「横綱をつくる」ことが目的化され、もっと大切なものをないがしろにするのは角界全体にとって生産的ではない。

綱を張る第一条件

 何はともあれ、貴景勝は腹をくくって立ち合いの変化を選択した。次の焦点は九州場所で横綱昇進を果たせるかどうかに移ってくる。しかし、注文相撲に11勝4敗の勝ち星の少なさもあり、通常の大関の優勝時よりは機運に欠ける。しかも横審の推薦内規には第一に次のように定められている。「品格、力量が抜群であること」。2場所連続優勝かそれに準ずる成績との条件はその次に位置付けられている。優勝決定戦のような取り口を今後も良しとするならば、果たして群を抜く力量を持っていると判断されるかどうか。結論は自明のような気もする。

 横綱ともなれば、常人には計り知れない極限の闘いが待つ。歴代の最高位経験者に共通するメンタリティーがある。例えば、元北の湖は引退後の理事長時代、破格のパワーで番付を駆け上がっていた把瑠都(のちに大関)と対戦するとしたらどのような相撲を取るかと報道陣に質問されると、気色ばんでこう言い切った。「どんな相撲って…。こっちは横綱だよ、変なことを聞くな」。また日馬富士は自身が休場中に快進撃を続けた逸ノ城について、どういう作戦でいくかと問われた際、鋭い目つきでこう吐き捨てた。「こっちは横綱だ。そういうことは向こうに聞け」。相手が誰であれどっしりと構え、自らの相撲を信じて土俵で相対する覚悟を秘めている。今回、優勝決定戦で貴景勝は熱海富士の右差しを封じようとするために立ち合いに動いたと明かした。相手に合わせた取り口で、本来の相撲が鳴りを潜めた。こうした精神的な差も今後埋めていかなければならない溝といえる。

 横綱が誕生するにはまず、相撲協会審判部が理事長に昇進を審議する理事会の開催を要請。受諾した後で理事長は横審に諮問し3分の2以上の賛成が得られれば推薦が決定。最終的に理事会で正式に決まる。ベースとして、取組を吟味するプロ集団、審判部の親方衆のお眼鏡にかなう内容と結果を求められる。決定戦の内容により、自らハードルを高くした形の貴景勝。「夢に向かってもう一度明日から頑張って、備えたいです」。一年納めの九州で神髄を発揮し、大きな山を乗り越えてこそ、「品格、力量抜群」となる。


高村収

1973年生まれ、山口県出身。1996年から共同通信のスポーツ記者として、大相撲やゴルフ、五輪競技などを中心に取材。2015年にデスクとなり、より幅広くスポーツ報道に従事