一所懸命

 協会理事長としては2013年6月の北の湖親方以来5人目の還暦土俵入りだった。現役時代は威力ある突き、押しや理にかなった寄り、並々ならぬ気力を武器に最高位へ上り詰めた。中学の途中から北海道広尾町から東京に出てきて九重部屋に入門。「上京した日は母に到着を電話で報告しても、涙が出てしまいそうで何もしゃべれませんでした。逃げて帰れないという思いが強かったです」。兄弟子の横綱千代の富士の胸を借りた伝説的な猛稽古で強くなり、1987年夏場所後に第61代横綱に昇進。腰痛に苦しんだ時期にはマイナス190度の冷凍室に入る治療など1日8時間以上のリハビリで克服し、8度の優勝を重ねた。

 実は今回も8月上旬に腰が痛くなり、現役時代以来という狭窄症と診断された。ぎっくり腰とは異なる症状といい、神経に障るため下半身に痛みやしびれがあった。それでも、引退後もストレッチを毎日欠かさずこなし、頻繁にウオーキングに取り組む地道さが生きた。時間があると適度に日光を浴び、肌の血色に磨きをかけたことも奏功。立派なふくらはぎをはじめ重厚感のある体に赤い綱を締め、堂々と四股、せり上がりを披露して大きな拍手を浴びた。アクシデントにも負けず平然とした表情で務めを果たす姿。現役時代からの〝努力の人〟らしい晴れ舞台だった。

 引き続いて、八角部屋創立30周年も兼ねた祝賀会。理事長は挨拶で「一所懸命」というワードに触れた。広辞苑によると「①賜った一カ所の領地を生命にかけて生活の頼みとすること②物事を命がけですること」の意味で、転じて一生懸命という言葉も派生したとある。常々、相撲の取り口でも安易な引き技を戒め、辛抱して攻めることの大切さを説いている理事長。壇上で「私はこの国技館を、そして大相撲を、命を懸けて守っているところです」と発した言葉に、協会トップとしての覚悟が十二分に漂っていた。

八角理事長(元横綱北勝海)による還暦土俵入り

券売と懸賞の活況

 横綱土俵入りは様式美を誇る国技の中でも重要な行事に数えられる。人々の興味も引き、本場所や巡業でも目玉の一つだ。今回、還暦土俵入りを誰でも目にすることができる状況で実施されたのは画期的なことだった。秋場所を前にした横綱審議委員会の稽古総見の後、同じ場所で行われたからだ。今回の稽古総見は、本場所が開かれる国技館のアリーナで無料公開され、約4千人が来場。終了後、観客はそのまま土俵入りを見物できた。

 タイミングも良かった。一般公開の稽古総見は新型コロナウイルス感染拡大により、中断されていた。それが4年ぶりに久々に実施された。その年に八角理事長も60歳の誕生日を迎えるという巡り合わせで「タイミングが合ったということです。ファンサービスとしてやるのもいいかなと思いました」と説明した。

 その約1週間後に本場所が初日を迎え、今回も全15日間のチケットは完売した。東京開催は1月の初場所、5月の夏場所を含め年3回。角界関係者によると、入場券の売れ行きについて、一昔前は次のような傾向が通説だった。新年気分で華やぐ初場所が一番よく、夏場所、秋場所と徐々に勢いが減っていく―。ただ、新型コロナ禍の影響から解放された今年を鑑みると、その定説は当てはまらなくなっていることが伺える。

 幕内の取組に懸けられる懸賞も活況で、初日は計198本に達した。相撲協会によると1日の過去最多本数を更新した。懸賞旗には特定の企業名や商品名が記されることが多い。NHKのテレビ中継では原則的に、呼出が懸賞旗を持って土俵を回る光景が大きく映し出されることはない。それでも懸賞の人気が高いということは、純粋に力士及び大相撲を応援したり、関わったりする熱量が広まっていると捉えられる。

難しい新大関

 土俵に目を移すと、大きな注目点は新大関豊昇龍の相撲だった。7月の名古屋場所で初優勝。元横綱朝青龍のおいという血縁関係もあって、余計に関心を集めているが、2日目からまさかの3連敗を喫した。名古屋場所でも新大関の霧島がけがによる休場を含めて6勝7敗2休と振るわず、秋場所をいきなりかど番で迎えている。時代の過渡期で次世代が台頭し、番付にも反映されてきているが、ここ最近は新大関の受難が目を引く。

 大関に上がると相撲協会の看板力士となり、待遇面も飛躍的に向上する。月給は関脇、小結時代から70万円増の250万円。巡業では関脇以下の力士とは別の支度部屋を用意されることがある。東京開催場所では国技館の地下駐車場を利用しての出入りが可能になるなど、特別感が備わる。もう一つ上に横綱という地位があるものの、取組では受けて立つ立場の色が濃くなり、負けてはいけないと硬くなることも予想される。新大関の優勝は2006年夏場所の白鵬(現宮城野親方)を最後に出現しておらず、昭和以降でも6人しかいない。ここまでくると至難の業という領域だ。事実、豊昇龍は連敗したことを次のように自己分析した。「勝ちたい、勝ちたいという思いで体が硬くなってしまっていました」。昇進を決めた先場所までとは異なる心境に陥った。

 秋場所終盤戦に向け、貴景勝、霧島を含めて大関陣がいかに奮起して土俵を引き締めるか。はたまた、平幕熱海富士ら関脇以下で勢いに乗る力士が最後まで賜杯レースに絡むのか。最近では恒例となった混戦模様になっているだけに、余計に興味が尽きない。時代の転換期という変わるべきものと、横綱土俵入りという変わらないもの。伝統が受け継がれていく上で必要不可欠な要素が、いつも以上に場所前から融合した勝負の舞台から目が離せない。


高村収

1973年生まれ。1996年から共同通信のスポーツ記者として、大相撲やゴルフ、五輪競技などを中心に取材。2015年にデスクとなり、より幅広くスポーツ報道に従事