バレエとの運命の出会い

 幼少期からスポーツや芸術面で注目される逸材には、両親またはどちらかがその道のプロということが少なくない。だが日本屈指のプリマバレリーナの森下洋子さんは、バレエとは無縁の家庭で育ち、幼少時はとても身体が弱かったと振り返る。

「父親は陸上ホッケーの選手で、国体に出て優勝したほどのスポーツマンでしたが、私は幼い頃身体が弱く、小さい頃の思い出はほとんど、母に背負われてお医者さんに行ったこと。医師から『何か運動するように』とすすめられ、ちょうど家の前の幼稚園に開設されたバレエ教室に通わせることにしたそうです」

 この偶然出会ったバレエが、森下さんの人生を方向づけた。「運動は苦手だった」と苦笑するが、バレエだけは違った。家の中でも外でも所構わず夢中になって踊り、「一生続けていきたい」と心に決めるほどで、バレエにすっかり魅せられてしまったのだ。

「でも、ほかの子が簡単にできるステップを私は全然できませんでした。みんなができても私ひとりだけできないこともしょっちゅう。だから家に帰って何度も繰り返し練習するんです。そうすると必ずできるようになる。両親も拍手して喜んでくれる。それが嬉しくて、ひとりでいつも踊っていました」

氷で冷やす冷蔵庫

 バレエを始めて少しずつ体力がついてきた森下さんだが、胃腸は弱く、市販の加工食品などはまだまだ身体が受け付けなかったという。そんな森下さんを気遣ったのが母・敏子さんだった。

 一般的なサラリーマン家庭で、決して裕福ではなかったというが、敏子さんは料理上手で日々の食卓はバラエティーに富み、栄養バランスもしっかりと考えられていた。当時はまだ珍しかった冷蔵庫、それも電気ではなく氷で冷やす初期モデルをいち早く購入するほどで、食に対する意識の細やかさが窺える。

「家庭の味として思い出されるのは、鉄板で焼いた広島風お好み焼き。穴子寿司や茶巾寿司など手間のかかる料理もよく作ってくれました。広島は水がきれいで、お魚も安くて新鮮。なかでも小イワシが美味しくて、ひとつひとつ丁寧に捌いた小イワシのお刺身は、我が家の定番でした。母が亡くなった今も、広島に帰るといただく大好物です」

誕生日を彩った、プロ顔負けのデコレーションケーキ

 料理だけではなく、森下家はおやつもすべて手作りだった。バニラアイスやクッキー、マドレーヌなど、おやつもまたバリエーション豊富。なかでも森下さんが楽しみにしていたのがバースデーケーキだ。これも市販のものではなく、土台となるスポンジ生地も手作りである。仕上げにバラをデコレーションするこだわりようで、「一年に一度の特別なスイーツ」として森下さんの脳裏に焼き付いている。

「ふっくらと焼いた黄色いスポンジ生地の間には、スライスした真っ赤なイチゴが入っていて、表面全体にはホイップした真っ白い生クリームが均一にそれはきれいに塗られていました。そして、ケーキの上には生クリームでかたどられたバラの花や繊細な模様があしらわれていて、それはまるでバレエの衣装のよう。もしかしたら、そうイメージして作ってくれていたのかもしれません」

 ケーキを印象付けるバラの花のアクセントは、カップケーキの型を逆さにして、底面を台にして生クリームでバラを作って冷蔵庫で冷やすのだそうだ。固まったらひとつひとつをケーキの上にのせるという、かなり手間暇かかる工程。こうした手の込んだバースデーケーキは毎年、誕生日の食卓を彩った。

〔森下洋子インタビュー vol. 2〕につづく


森下洋子
1948年、広島県生まれ。3歳でバレエを始め、1971年に松山バレエ団に入団。1974年第12回ヴァルナ国際コンクールに出場し、金賞を受賞。以後、世界各国に活躍の場を広げ、2001年に舞踊歴50年を迎え、松山バレエ団団長に就任。1997年、女性最年少の文化功労者として顕彰される。2002年、芸術院会員に就任。バレエ歴70年を超え、第一線で活躍中。近著に『平和と美の使者として 森下洋子自伝』(中央公論新社)がある。2023年12月2日より松山バレエ団75周年記念公演『くるみ割り人形』開催。詳細は下記HPから。

松山バレエ団

VictorySportsNews編集部