花道奥でのぞかせた本当の表情

 今場所の状態を考慮すれば、3場所ぶり3度目の優勝は奇跡的ともいえる。夏場所全休の原因となった左足首の負傷は完治しておらず、がっちりとテーピング。加えて8日目には左足親指まで痛める悪循環に陥った。安青錦に近い関係者によると、左足をかばううちに場所の途中から右足にも違和感を覚えたという。土俵上では力士らしく、極力淡々とした表情で痛みを押し隠していた。しかし取組を終えて引き揚げる際、花道奥でテレビカメラが届かない位置まで来ると、我慢していた痛みに思い切り顔をしかめることもあった。

 14日目を終えて安青錦が2敗で単独トップ、1差で大関霧島と関脇熱海富士が追う展開になった。安青錦は千秋楽の本割で勝てばそのまま優勝を決めることができたが、熱海富士の圧力に屈した。直後に霧島が琴桜との大関対決で勝ち、3人が12勝3敗で並んで優勝決定ともえ戦にもつれ込んだ。最初に2連勝した力士が賜杯を獲得するルール。本割で熱海富士に敗れた内容を見るにつけ、安青錦が頂点に立つことは至難の業に思われた。だが周囲の見方と、本人の気持ちは違った。「今までの優勝は全て決定戦で勝って優勝している。決定戦になったら有利かなという気持ちがあった」。土壇場に来て、ウクライナ出身の22歳には、勝者のメンタリティーが宿っていた。

 本割から約20分後。本割の取組で不安が増したという右足首にも急きょ、固くテーピングを施して登場した。最初に巨漢の熱海富士に対し、素早く左まわしを引いて寄り切り。次に霧島の懐に潜り、足技を絡めて寄り切った。その瞬間、満員のIGアリーナは興奮のるつぼと化し、至る所で観客の万歳。まるで安青錦の状況を知って祝福しているかのようだった。本人は場所前からを振り返り、こう総括した。「不安はすごくあったけど、自分のことを信じて優勝できた」。揺るぎない思いが結実した。

大事な場面で発揮されたベテランの技

 舞台裏では別のドラマが繰り広げられた。安青錦のまげを担当するのが一等床山の床仁。所属は荒汐部屋だが、安青錦の師匠の安治川親方(元関脇安美錦)を現役時代に担当していた縁もあり、安青錦の大銀杏を結っている。床仁は荒汐部屋では関脇若隆景も担当。このため、昨年11月の九州場所で安青錦が初優勝して以降、先場所の若隆景を含めて5場所中4場所で幕内優勝力士のまげを担当したことになる。複数の部屋にまたがっての〝優勝請負〟だ。千秋楽では優勝を決めた力士が表彰式に臨む前に支度部屋へ戻り、大銀杏を整えてもらいながら報道陣の取材に応じるシーンがNHKで流れるのが恒例。59歳の床仁は「自分は手しか映りませんから、緊張とかはありません。優勝する力士を担当できることは光栄です」と殊勝に話した。

 しかし名古屋場所千秋楽では、おなじみの光景がなかった。各段の優勝決定戦が重なったこともあって進行が大幅におし、優勝決定ともえ戦が始まったのが午後6時前。通常は同6時で放送を終了するNHKも、千秋楽では異例の延長で対処した。同6時5分ごろに優勝決定。すると、表彰式を急ぐために床仁は花道の奥で大銀杏を整えるように指示された。「長いことやっていますが、こんなこと初めてでしたよ。びっくりしました」と戸惑いを隠さなかったが、冷静に対応。くしなどが入っている道具箱を持って駆けつけ、安青錦にいすに座ってもらい、応急措置的に着手した。

 特に安青錦の場合は頭をつける取り口が多いため、大銀杏が大きく乱れやすい。実際に優勝決定ともえ戦を終え、大幅に形が崩れていた。床仁は「時間がなかったのでくしを入れる回数が少なかったですが、何とか大銀杏の形にしました」。積み上げてきたベテランの技術の粋を勝負どころで発揮。表彰式の晴れ舞台の陰には、伝統文化を支えるプロフェッショナルの奮闘があった。

苦しさとありがたさで「新生」

 千秋楽は幕内以外でも十両、幕下、三段目で優勝決定戦が実施された。中でも最も大人数で争われたのが幕下で、6勝1敗で7人が並んだ。そしてトーナメント戦を制したのが伊勢ケ浜部屋の旭富士。序ノ口デビューから序二段、三段目に続く4場所連続制覇を果たした。これは年6場所制となった1958年以降で初の偉業となった。5番目の取組で敗れ、序ノ口デビューからの連勝は25でストップ。最長記録更新とはならなかったが、「史上最強の新弟子」の異名を持った逸材には変わりない。ただ今場所は立ち合いで左へ動いて上手を狙う相撲が複数あった。番付が上がるにつれ立ち合いの当たりの強さは増していく。こうした消極的な策は相手を呼び込む危険性があり、出世のスピードを遅らせかねない。

 その点で今場所の安青錦はいいお手本になり得る。けがを抱えながら、安易に立ち合いで変化することを回避。これが優勝決定戦での秀逸な取り口につながった。初土俵以来初めて番付が降下し、大きなけがを抱えながら闘い抜いて賜杯を抱いた。初土俵から所要14場所の速さで初めて昇進した大関の地位に、逆境をはねのけて舞い戻る。「苦しいけど、ありがたい期間だった。勢いだけじゃないというところを見せることができたと思う。一番上の番付を狙っていきたい」。堂々と口にする姿は〝新生安青錦〟の誕生でもあった。

 両横綱はふがいない成績が続いている。左肩を脱臼して以降、精彩を欠く大の里は9勝6敗。豊昇龍は右脚のけがで2場所連続の途中休場を余儀なくされた。関係者によると、昨年のロンドン、今年のパリに次いで、来年以降も世界各地で海外興行が続く可能性がある。その頃には現在の2横綱に割って入り、安青錦が最高位に君臨して日本の国技をアピールしていてもおかしくない。


高村収

著者プロフィール 高村収

1973年生まれ、山口県出身。1996年から共同通信のスポーツ記者として、大相撲やゴルフ、五輪競技などを中心に取材。2015年にデスクとなり、より幅広くスポーツ報道に従事