文=内田暁

脅迫、不正……テニス界にはびこる影

 ITF(国際テニス協会)主催のトーナメントで久々に優勝したとき、彼女の携帯電話には友人や関係者から多くの祝福のメッセージが届いていた。その中には、いくつかの英語のメッセージも含まれている。

「誰からだろう?」

 そう思いながら読んでみると、そこには目を覆いたくなるような、罵詈雑言(ばりぞうごん)の数々がつづられていた。

「この役立たず女! とっとと引退しろ!」「お前は最低だ! ロクなことをしやしない!」

 せっかくの祝福気分に水を差されたことを腹立たしく思いながらも、彼女にはなぜそんなメッセージが届いたかもわかっている。ギャンブルで、自分が負けるほうに賭けていた人間たちからの八つ当たり――それは彼女らテニス選手たちにとって、さほど珍しいことではなかった。

 2017年のテニス界は、世間的にはさほど大きく取り上げられないものの、関係者たちには衝撃を与えるニュースで幕を開けた。

 2016年全豪オープン・ジュニア部門優勝者である18歳の選手が、ギャンブルに関与する不正行為を働いたとして、警察の調査対象になったというのである。実際、後にその選手には、「当面、全ての公式戦やトーナメントの参加を禁ずる」との処罰が下された。彼が行った不正とは、ATPチャレンジャー(ツアーの下部大会)の1回戦で、第1セットを故意に落としたというもの。八百長を持ちかけた者たちの、誘いに乗ってしまったということだ。

 このニュースを記者から伝え聞いた世界2位のノバク・ジョコビッチは、「将来を嘱望された若い選手が、不正行為に手を染めていたのは本当に残念だ。彼がなぜ八百長の誘いに乗ったのか、理解できない」と表情を曇らせた。かく言うジョコビッチも、彼自身がまだ19歳だった頃に、八百長を持ちかけられたことを明かしている。

「僕に直接話が来た訳ではなく、僕のチームスタッフに接触した人物がいた。もちろんその時点で断ったし、僕は彼が八百長を持ちかけた大会にすら行かなかった」

 その誘いの内容とは、ロシアの大会の試合で負けてくれれば、20万USドル(約2300万円)を支払うというものだった。

©Getty Images

(写真=ATPツアーで初優勝した19歳のジョコビッチ。このころに八百長を持ちかけられたという)

高潔さを誇るテニス界の賭博にまつわる対策

 ギャンブルに端を発する不正は、ここ数年のテニス界に差す暗い陰であり、関係者たちの頭を悩ませている問題だ。賭けそのものは多くの国で合法であり、それどころか全豪オープンなどの大会でも、賭博運営会社が公式スポンサーに名を連ねている。

 テニスが賭けの対象になりやすいのは、その圧倒的な試合数の多さにあるだろう。何しろテニスは、常に世界のどこかで大会が開催されている。トップグレードのATP(男子)とWTA(女子)のツアーだけでも週2~3大会行われ、その下の“チャレンジャー”や“ITF”、“フューチャーズ”と呼ばれるトーナメント群まで含めれば、男女それぞれ15前後の大会が毎週のように開催されているのだ。昨年行われたテニスの公式戦は、114,126試合。そのほとんどが賭けの対象となり、テニスはサッカーに次ぐ“人気のギャンブル”だったという。

 そのようにテニスが賭けの対象となる中で、不正行為と並んでもう一つ、特に近年問題となっている事象がある。それが冒頭にも触れた、ギャンブルで損失を被った人たちから選手への、脅迫めいたメッセージ。特に若い女子選手たちにとっては、不条理極まりない誹謗中傷や罵詈雑言(ばりぞうごん)の数々は、時にキャリアを終えさせるほどの刃となる。その最たる例が2013年、最高40位まで達した当時22歳のレベッカ・マリーノが、SNSでの脅迫や悪言を理由に引退したことだ。

 その頃からITFも対策を強化し始め、今では脅迫が届いた際は主催者などに報告すること、さらに選手たちには、年1度は講習を受けることを義務付けている。ITFの講習会では、SNSで自分の居場所を特定する写真やメッセージはなるべく上げないこと。上げる場合はリアルタイムではなく、事後報告的なタイミングにすることなどを指導している。

 15歳の頃から誹謗中傷メッセージが届き始めたという、日本のある女子選手は、「テニスをやめろのみならず、家族を殺してやると書かれたことすらある」と言った。また最近、世界トップ10選手のマディソン・キーズは受け取ったメッセージの一部を公開し、メディアを介して「ギャンブルが理由で選手の不幸を願う人たちがいる。そのことが選手たちを、とてつもなく傷つけている」と訴えた。

 賭けそのものは合法でも、結果的にギャンブルは不正行為を引き起こし、選手をおびえさせる脅迫なども生んでいる。

「例え合法的なものでも、賭博の運営会社が大会のスポンサーをするのが、果たして正しいことなのか……僕には何とも言えない」

 ジョコビッチは、言葉を選びつつこの問題への意見を述べると、さらにこうも続けた。

「ただ一つ言えるのは、テニスがここまでの人気を誇ってきたその理由は、競技が誇る高潔さにこそあるはずだ」


内田暁

6年間の編集プロダクション勤務を経て、2004年にフリーランスとして活動し始める。2008年頃からテニスを中心に取材。その他にも科学や、アニメ、漫画など幅広いジャンルで執筆する。著書に『錦織圭 リターンゲーム:世界に挑む9387日の軌跡』(学研プラス)、『勝てる脳、負ける脳』(集英社)、『中高生のスポーツハローワーク』(学研プラス)など。