文=いとうやまね
リバー(川)をおさめる女神と「時」の概念/FS『リバーダンス』
©Getty Images 重厚な空虚五度の響きと、霧の流れを思わせるロー・ホイッスルの音色が、辺りを包み込む。やがて朝を告げる光が差し込み、雄大な緑の大地を抱く島が姿を現す。まだ神々と人間がすぐ側にいた遠い時代である。全身に太陽のエネルギーを受け、優雅に、そしてダイナミックに舞う本郷の姿は、ケルトの母神「ダヌ」を思わせる。
『リバーダンス』は、アイルランド人作曲家ビル・ウィーランが作り上げた、2時間に及ぶ舞台芸術だ。アイリッシュダンスをベースとしたパフォーマンスと音楽で、アイルランドの歴史、さらにそれ以前のケルトの流れを、川(リバー)になぞらえて表現している。プログラムでは、冒頭の『太陽を巡るリール』というパートを使用している。
ダヌ女神の「ダヌ/Danu」は、ケルト語の「川」を意味する「ドヌ/donu」に語源を持つ。ヨーロッパには、その名が継承された川がいくつもある。例えば、ドナウ川やドニエストル川、ドニエプル川、ドン川などがそうだ。ケルトにとって、川は万物を生み出す源であり、それぞれの川には“女神”が住んでいる。
『太陽を巡るリール』は、さらに3つのパートに分かれている。冒頭の幻想的な曲は「コロナ」、次のリズミカルな曲は「クロノスのリール」、最後は「太陽を巡るリール」となっている。「リール」とは、アイリッシュ音楽のリズムのひとつである。ストーンに飾られた黒の衣装が、精霊の住むオークの森をイメージさせる。ジャンプやスピンで裾からのぞくエメラルドグリーンと、長い腕に霞のように表現されたオーガンジーが、本郷の美しさをいっそう際立たせる。
曲調が変わると、ステップシークエンスがはじまる。フィドル(バイオリン)の旋律の裏でリズムを刻むのは、アイリッシュ音楽には欠かせない楽器「スプーンズ」である。その名の通り、食べるための本物のスプーンを2枚合わせてカチカチと鳴らすのである。その金属音と床を踏み鳴らす音が、氷上に緊張感と高揚感を生み出している。ところどころにはめ込まれたタップのステップと、メリハリの利いたブレイクが、本郷の姿勢を整わせ、連続するジャンプに力を与える。
曲名にある「クロノス」とは、ギリシャ語の「刻む」という動詞から派生した「時」を表す語句だ。古代ギリシャには「時」の概念がふたつあり、ひとつはその瞬間を表すκαιρός(カイロス)、もうひとつは、過去から未来への連続した時間を表すχρόνος(クロノス)だ。後者はまさにこの作品のコンセプトと言っていい。女神は時を刻みながら、次々と世界を生み出しているのだ。
加速するスピードとはじけるような本郷の笑顔――「太陽を巡るリール」
©Getty Images ケルトは、神官を中心に自然信仰を行っていた。多神教であり、人間の霊魂も不滅で、「輪廻転生」が信じられていた。アイリッシュ音楽もまた、シンプルな旋律の繰り返しで、それは渦のように回転し、元の位置に戻る作りになっている。音楽の概念も「輪廻転生」であり、「永遠」なのだ。
ロー・ホイッスルが、どこか尺八のような印象を与える次のパートは、実際の舞台では、男性のソロダンサーが登場するシーンになる。彼はケルトの太陽神「ルー」である。太陽もまた生命の源であり、創造と豊饒の神として崇められていた。
「太陽を巡るリール」のパートがはじまると、本郷のスケーティングはスピードを増す。途中に表現されるタップダンスでは、場内から手拍子が起こり、本郷のはじけるような笑顔が見られる。連続するスピンは、永遠に続く魂への賛歌だ。そして割れんばかりの拍手の中で、フィニッシュを迎えるのだ。
神話の中の太陽神ルーだが、やがて人間の娘との間に息子をつくる。それがアイルランドの英雄「クーフラン」になる。アイルランドはこの時から「人間」が治める国になり、それが現代まで続いている。緑の島を人間が治めるようになると、神々は地下にもぐり、小さくなり、「妖精」になった。アイルランドに妖精が多い所以である。