メッシングの高祖父の名は「永野万蔵」。日本からカナダへの移民第1号とされる。2009年7月のカナダ総督夫妻主催の晩餐会で、当時の天皇陛下(現上皇さま)は以下のように述べられている。「貴国とわが国との交流は、1877年、長崎県出身の永野万蔵が、ブリティッシュコロンビア州のニュー・ウェストミンスターに上陸し、貴国に移り住んだことに始まります。その後、両国間の交流は順調に発展し、1887年にはバンクーバーと横浜の間に太平洋航路が開通し、2年後バンクーバーにわが国の領事館が置かれました。1928年には、オタワにわが国の公使館が、その翌年には、東京に貴国の公使館が、それぞれ開設されました。 貴国が開設した在外公館としては、英、米、仏に次ぐ4番目の公館であり、当時、貿易を含め、両国間の交流が、既に活発になっていたことを示すものであります」。日本とカナダ、両国の交流の始まりと言われており、移住100周年には最初に上陸したブリティッシュコロンビア州の山が「マウント・マンゾウ・ナガノ」と名付けられた。

「自分に流れる日本の血を誇りに感じ、僕はそういったつながりの中でスケートをすることが大好きだった。そういった家族の側面を表現したくて、ルーツを見てもらえるように長い間スケートをしたいと思った」とメッシング。日本人への敬意を大事にする誠実な人柄は、一つ一つの行動が証明している。2019年9月、カナダのオークビルで行われた「オータム・クラシック」。自身が3位に入った大会で優勝したのは羽生結弦だった。表彰式で君が代が流れる中、選手の後ろで垂れ下がる日本国旗の端を持って広げた行為は、SNSなどで世界中に拡散され「真のスポーツマンシップ」などと称賛を集めた。その直後に弟の事故死という悲劇に見舞われながらも、氷上では「観客のためにスケートをしたい」と明るさを忘れることはなかった。

 フィギュア界ではベテランの31歳。だが、2月の四大陸選手権ではエネルギッシュな演技で合計得点の自己ベストを更新するなど、年齢は感じさせない。万全の仕上がりで日本に乗り込み「地球上で最高のお祭りの一つ。間違いなく僕の思い出になる大会。とにかく楽しみたいんだ」と本番を待った。ショートプログラム(SP)では、4回転―3回転の連続トーループ、トリプルアクセル(3回転半)、3回転ルッツの三つのジャンプを完璧に決め、スピンも全て最高難度のレベル4を獲得。表現面を示す演技点は三つのうち二つが9点台の評価を受けて4位と好発進した。スタンディングオベーションでたたえられ「とても気持ち良かった。もっとジャンプを跳びたかったし、演技していたかった」と興奮冷めやらない様子で取材に応じた。フリーでは前半からジャンプのミスが重なったが、1万8千人の観客の手拍子による後押しで不思議と勢いは衰えなかった。演技終盤には、右頰が氷上につくほど体を倒しながら滑る「ハイドロブレーディング」を披露。得点を待つ「キス・アンド・クライ」では、元選手の妻との間に授かった1男1女の写真をカメラの前に掲げる子煩悩な一面も見せて、会場を楽しませた。「メダルは重要ではない。どれほどスケートを愛しているか、皆さんからの声援に感謝しているか、少しは伝えられたんじゃないかな」。その表情は実に晴れやかだった。

 引退後は、父親と同じ消防士になる予定だが、アイスショーへの出演や後進への育成にも興味を示す。エキシビションには欠かせない盛り上げ役だけに引く手はあまたありそうだ。

 その前に現役のラストダンスも日本で迎えることになる。4月13日開幕の世界国別対抗戦(東京体育館)にカナダ代表として出場することが発表された。「僕の偉大な高祖父がこの旅を始め、カナダに来てそれがつながり、僕が日本でキャリアを終える。彼が始めた旅を円のようにつなげた思いがする」。大会後は、長崎県南島原市を初めて訪問する予定。高祖父が眠る地でどんな思いを伝えるのだろうか。


VictorySportsNews編集部