取材・文・写真=木之下潤 写真提供=ジャマル

ジャマルの身に何が起き日本に来たのか、なぜ日本でプロを目指したいのか

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 突然ものすごい爆撃音が耳を突き刺した。何が起こったかわからないまま、親子4人でマンションの地下に身を潜めた。妹は隣で正気を失い、母が頬をたたき必死に叫びながら抱きしめている。次の日、マンションの4階と5階がなくなっている現実を目の当たりにした。

 この体験をしたのは「ジャマル」。6年間、ずっと内戦が続いているシリア出身の青年だ。4月に25歳を迎える。彼は日本にいるシリア人の中で難民認定を受けている6人のうちの1人。避難するため、日本にいるおじさんを訪ねてやってきた。いまは埼玉で暮らしている。

 ジャマルとは2月半ば草サッカーで出会った。その夜、彼も仲間たちと一緒に焼肉屋に流れ込んだ。たまたま席が隣だったから話す機会が多く、友達になった。みんなもシリアという国に興味津々だったから話題はジャマルに集中した。サッカー、内戦、文化、食べ物……こちらに英語を達者に話せる人間がいなかったので、細かいニュアンスまではつかめなかった。

 しかし、共に食事をしたこともあり、「お酒が飲めない」「豚肉が食べられない」と宗教による慣習の違いを直に触れられたから、言葉以上のものを肌で感じ考えさせられた。帰りの電車も途中までは同じだったから、もう少しだけシリアサッカーのことを聞いた。

シリアには35チームくらいあったこと。
ジャマルが3部から1部へと一歩ずつ階段を上ってプレーしたこと……

なぜ聞いたのか? 知らないことも当然あるが、それ以上にジャマルの「日本でプロを目指したい」という気持ちが焼肉屋で伝わってきたからだ。シリアのトップリーグでプレーし、ナショナルチームのキャンプにも招集されたこともあるという。小さい頃からの「サッカー選手」という夢に手がかかり、少しずつその地盤を固めるチャンスがあったかもしれないのに、母国の内戦であきらめざるを得なかった。

 今回取材をしたのは、そんな背景があったからだ。ただ、そもそも難民のことやシリアのことを知らなかったため、ジャマルに取材をする前に難民支援協会の田中志穂さん(取材時は通訳もしてくれた)と、過去JFAのアジア貢献事業でシリアに派遣(2007年6月〜2009年6月)され、育成普及活動にたずさわれていた屋良充紀さんに話を聞きに行った。

シリアという国、そしてシリア難民とは

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 田中さんが言うには、日本では難民認定を受けること自体が難しいとのこと。世界的に多くの国が人道支援について議論し行動するなか、日本は欧米のマスコミからバッシングされるほど、この問題について消極的な姿勢をとっている。

 日本で難民申請をすると認定が降りるまで定住支援はなく、ジャマルが申請した当時は「おじさんがいるから」という理由で生活支援費(保護費)が受けられず、就労、国民健康保険を与えられる権利が半年間与えられなかったそうだ。その中で、どうやって生活していけばいいのか。

 屋良さんには、当時のシリアの暮らしを聞いた。アサド政権下にあっても宗教の慣習はあったが、人々は自由で豊かな暮らしを送っていたそうだ。

「食べものもおいしく、シリア人も懐に飛び込んでしまえば、とてもフレンドリーで楽しく付き合える人たちばかりだった。日本人は“独裁政権”と耳にすると北朝鮮のようなイメージをしがちだけど、シリアでは貧困の人を見たことがなかった。僕が見る限り一般市民の人たちは、不自由さを感じて生活をしていなかった。もちろん、すべてを見たわけではないけれど……」

そんな生活をしていたシリア人は突然「アラブの春」をきっかけに内戦へと巻き込まれ、ジャマルも日本に逃げることになった。

 難民とは何か。シリアサッカーとはどんなものなのか。そして、ジャマルの挑戦は……。このインタビューが何かを感じ取る一助になれたらと思う。


僕は3部から1部へと一歩ずつ階段を上ったが、違う選手もいる

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——まず、シリア国内でのサッカーがどんな存在なのかを教えてください。

ジャマル 小さい頃から大人気のスポーツです。家でブラジルのサッカーのビデオを見たり、近所では子供たちが至るところでサッカーをやっていたりするし、みんなでボールを蹴って遊んでいたりします。日本と同じように男の子の間では、スポーツ自体が人気です。ただ、スポーツクラブとしてきちんとオーガナイズされているわけではありませんが、サッカーとバスケットボールは特に人気が高いスポーツ。日本でいえば、サッカーは野球のような存在です。
僕は小学校の頃から友達とサッカーをやっていて、ちょうど12歳になった頃、地元のクラブに入団しました。そのクラブはプロサッカーリーグの3部に所属していた「BARADA」というチームです。

——シリアではサッカークラブに誰でも入れるのですか?

ジャマル いえ、オフシーズンにセレクションがあります。僕が受けたときは、自分の好きなポジションを希望しゲームをしました。他にもロングランニングなど、いくつかのフィジカルチェックをされました。

——ジャマルが合格して通っていたのはプロクラブのアカデミーですが、それ以外の子たちはどこでプレーしているのでしょうか。

ジャマル みんなで集まってサッカーをするような、いわゆるストリートサッカーです。小さい頃から誰もがやっています。シリアではプロリーグとして活動しているのは3部までのチームです。日本でいう街クラブのようなものはありません。

——そういう環境なんですね。では、3部から一歩ずつ階段を上って行ったわけですね。

ジャマル 12、13、14歳の3年間は3部リーグで戦っていました。ちょうど高校生になるタイミングで所属する「BARADA」が2部リーグに昇格したので、高校3年間はその2部でプレーしていました。その後、ダマスカス大学に入学が決まった頃に1部リーグの「ALWEHDA」(屋良さん曰く、国内の強豪クラブ)からオファーを受けて移籍しました。それが2011年(現政権を倒し民主化を進める革命「アラブの春」が起こった年)です。僕自身はナショナルチームのトレーニングキャンプに招集を受けたのですが、内戦が悪化し参加が叶いませんでした。

日本に来て難民認定され、夢を思い出した

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——なるほど。実際にジャマル自身は「ALWEHDA」での活動は可能だったんですか?

ジャマル 大学に通いながらクラブの活動をしていたので、2部や3部でプレーしていた頃に比べるとサッカーに集中できていませんでした。シリアでは、日本のようにプロリーグに入ってサッカーを続けても将来の道が開ける環境ではありませんでしたから、どちらかといえば勉強に力が入っていました。だから、日本に来て難民認定を受けてから「小さい頃からサッカー選手としてやっていきたかった」という夢を思い出し、プロへのチャレンジをしたいと思いました。

——そもそも大学に通いながら1部リーグでプレーできるものなのでしょうか?

ジャマル もちろんです。時間を作りながらリーグ戦に参加していました。当然フルタイムで活動しているわけではありませんから、サラリーは1ゲームいくらという感じで歩合制のような形でもらっていました。

——ダマスカス大学時代は将来をどう考えていたのですか?

ジャマル シリアではプロになるのを実力で夢を叶える選手もいますが、実際にはそうでない理由でプロになった選手もいます。日本の方々には想像し難い現実が当時のシリアにはあって、僕には難しい部分がありました。だから、大学に入って勉強に集中する環境を選びました。
僕が「ALWEHDA」に入った頃、コーチに言われたのは「もし食べて行きたいならスポーツは選ぶな」ということです。「スポーツを選んでも将来の道が開けないから」と。だから大学に入ってからも「サッカーをやりたい」という思いを心の中に閉じ込めて、一生懸命に勉強することでごまかしていました。

#2はジャマルが国外避難への経緯を語る

木之下潤

1976年生まれ、福岡県出身。編集者兼ライター。福岡大学を卒業後、地元の出版社や編集プロダクションで幅広く雑誌や広告の制作に関わる。2007年に上京後、角川マガジンズ(現株式会社KADOKAWA)に入社し情報誌の編集を行う。2010年にフリーランスとして独立。現在、サッカーの分野では育成年代をテーマに『ジュニアサッカーを応援しよう!』『サカイク』などの媒体を中心に執筆。基本は「出版屋」としてあらゆる分野の書籍や雑誌、WEB媒体の企画から執筆まで制作全般にたずさわっている。