佐古賢一の『バスケット談義』vol.13~私が広島でヘッドコーチをする理由は「旧友の言葉との不思議な巡り合わせ」
華々しいスタートを切ったBリーグにあって、2部リーグである「B2」はやや注目度が落ちるが、それでもB1所属クラブに劣らぬ実力を備えた強豪も存在する。その一つが広島ドラゴンフライズだ。初年度のB1昇格を虎視眈々と狙うチームを率いる「Mr.バスケットボール」こと佐古賢一ヘッドコーチに、チームの状況やバスケ界の話を聞く。 島根スサノオマジック、広島ドラゴンフライズ、そして熊本ヴォルターズによる激しいB1昇格レースが続くB2西地区。先週末は首位の島根と、それを追走する2位広島の『天王山』が島根のホーム、松江市総合体育館にて行われた。昇格に向けて負けられない戦いは、第1戦は50-72とまさかの広島の大敗。第2戦は76-69と盛り返し、両チームとも痛み分けに。 広島を率いる佐古賢一ヘッドコーチにこの激戦を振り返ってもらうとともに、出身地でも現役時代にプレーした地でもない広島で、クラブ創設からヘッドコーチを引き受けることになったエピソードを語ってもらった。 選手の「勝ちたい」という気持ちに賭けました ──まずは島根との『天王山』を振り返ります。4月1日の第1戦は誰も予想してしなかった島根のワンサイドゲームとなってしまいました。 出だしから島根のプレッシャーディフェンスに対処できず、イニシアチブを取られたままで終わってしまいました。なかなか我々にシュートの当たりが来なかったのですが、明らかに島根にエナジーがあり、気持ちも島根の方が入っていました。とても残念なゲームをしてしまったと思っています。 ──大敗の中でも収穫はありましたか? 北川(弘)はしっかりディフェンスをして、チームメートへのヘルプまでちゃんと考えながらプレーしていたのは収穫です。勝ちゲームの時だけ頑張るのではなく、厳しい試合でこそエナジーを出して最後まであきらめずにプレイするよう、チームで心掛けなければいけません。 ──絶対に負けられない日曜日の試合は76-69と快勝でした。勝因はどんなところですか? この試合は前日とは違い、我々の方にエナジーがありました。前日と戦術は全く変わらないのですが、選手の自主性というか「勝ちたい」という気持ちに賭けました。選手に話したのは「できるんだったらやろう。我々に力があるのであればコート上で表現しよう」ということです。やれることをできないのであれば、今シーズンのハードルを越えることはできませんし、そういう覚悟を持って試合に臨んだつもりです。 両チームともにアグレッシブなディフェンスで、緩んでしまう時間帯のない緊迫したゲームの流れの中で、北川、鵤(誠司)、田中(成也)の3ポイントシュートが要所で入ったのが効きました。 残りのゲームの結果にもよりますが、島根さんとはプレーオフで当たる可能性がありますから、もっともっと良いチーム状態に持っていけるように頑張っていきたいです。 「いつか代表で一緒にまたやろうよ」という旧友の言葉 ──チーム創設から3シーズン目を迎えた広島ですが、そもそも広島という土地は佐古ヘッドコーチにとって縁もゆかりもない場所であったかと思います。初代ヘッドコーチとしてこのチームに来ることになった理由は何だったのでしょうか? 最大の理由は、旧友の言葉との不思議な巡り合わせなんです。北陸高校時代、同じバスケ部に広島出身の西俊明という仲の良い同級生がいました。3年生で進路を決める時にトシがこんなことを言ったんです。 「高校3年間ケンと一緒にやれたことは幸せだったと思う。俺の夢は日本代表でプレーすること。でも幸か不幸か、ケンと3年間やってみて、この先ケンを追い抜くことが多分できないと分かった。だから俺はコーチで日本代表になりたい。だからアメリカに行ってコーチの勉強をして帰って来る。ケンはプレーヤーで日本代表になって、いつか代表で一緒にまたやろうよ」 率直なところ、当時の私はバスケットがそこまで好きという感覚がなく、中学から高校へ進学する手段でしかありませんでした。だからまさかバスケットで大学に入れるとは思っておらず、ましてや日本代表なんて遠い世界の話だったんです。 だからトシにいきなりレベルの高いことを言われても、その話はあまりピンときませんでした。 人生とは時に残酷なもので、トシは志半ばで癌にかかり、留学先のアメリカから帰国後、ご家族や我々だけでなく本人が一番悔しかったと思いますが、残念ながら20歳の若さで急逝してしまいました(奇しくも取材日の4月5日は俊明さんの命日)。 トシが亡くなってから、私は大学3年で日本代表に初招集されました。その後、いすゞ自動車、そしてアイシンシーホースでプレーして引退し、代表チームのナショナル委員長として強化に務めました。その間、高校の時にトシが言ってくれた言葉はずっと忘れていたんです。 2014年、広島がチームを立ち上げることとなり、ヘッドコーチのオファーをいただいたのですが、その話を持ちかけてくれたのが、トシのお兄さんであり現ゼネラルマネージャーの西明生でした。 ──そこで旧友の言葉が出て来るわけですか……。 アキオさんには「コーチはやりません」とずっと断っていました。コーチとは違う方向で日本代表に携わっていきたいと思っていたからです。ただ、ある日アキオさんから電話をもらった時に、急にトシの話をハッと思い出しました。まだトシが生きていたら、アキオさんは私ではなくトシにヘッドコーチをやらせたかったはずです。それでも私に電話をしてくれた……それが強い運命のような気がしました。 このタイミングでオファーを受けないと、自分の中で一生強い『しこり』となって残り、佐古賢一として絶対に後悔する気がしたのです。神奈川に残すことになる家族や、当時経営していた会社など仕事面でも整理しなければいけないことが様々あり、とても悩みました。 でも、広島で生まれ育ったトシの言葉が最大の決め手となり、一番に電話をくれた広島のゼネラルマネージャーがお兄さんのアキオさん、そして広島が立ち上げの初年度というチームであったことからも、「これは巡り合わせなのかなあ」と感じ、オファーを受けることとしました。 すべての『今』に対し、自分の心はすっきり充実しています ──数奇な運命、巡り合わせで今の状況になったようですが、広島に来てみていかがでしたか? 正直なところ、初年度は大変なことばっかりでした(笑)。それまで在籍していたいすゞやアイシンは環境に恵まれたチームでしたから。まず練習会場が取れないとか、苦難の連続でした。待遇面はどうしても違うし、初年度のチームはお金がないのが常ですから仕方がないのですが、3年間で今の状態まで改善されて、チームには感謝の気持ちしかありません。 コーチとしてド素人と言っても過言ではない私をヘッドコーチとして呼んでいただいたことについても、とてもありがたく思っています。現役の経験を伝えることしかできず、右も左も分からなかった私が、コーチとしてたくさんの経験を積ませてもらっています。 仕事に対する結果はまた別の話として、トシからもらった『言葉』に時を経て再び巡り会い、広島に来る決断から始まったすべての『今』に対して、自分の心はすっきりと充実しています。初年度から支えてくれるファンの人たちや仲間など、広島に来なかったら巡り合うことのなかった人たち……。トシが引き寄せてくれたすべてのことが自分の貴重な財産になったと感じています。
文=岩野健次郎 写真=高村初美