文=大島和人

ソリッドなバスケを崩さなかった栃木

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 2017年5月27日、ついにBリーグの初代チャンピオンが決まった。リンク栃木ブレックスは発足7年目で、09年にリンクアンドモチベーション社の連結子会社として発足した成り立ちを持つ。しかし旧JBLやNBLに属しながらも発足当初から”実業団チーム色”は皆無に近く、独立採算の市民チームとして地域に密着した活動を行ってきた。既にリンク社との資本関係も解消されている。1月のオールジャパンを制した千葉ジェッツに続いて、純クラブチームが日本バスケの二つの頂点を占めることになった。

 一発勝負で行われたチャンピオンシップのファイナルは同点9回、リードするチームが入れ替わること14回という激しいつば競り合いだった。第4クォーターの開始時点では62-63と栃木がビハインドを負っていた。しかし川崎ブレイブサンダースは勝負所で痛いミスが出た一方で、栃木は司令塔の田臥勇太を中心に内、外とバランスよく得点を重ねる。110キロのジェフ・ギブスがゴール下でパワフルなプレーを見せれば、この試合のMVPに輝いた古川孝敏が外角からのシュートを沈め、最終的には85-79のスコアで勝利を挙げている。

 川崎のキャプテン、司令塔である篠山竜青は田臥について「ゲームコントロールの部分で、マッチアップしながらすごいなと思った」と言及しつつ、「勝負所で僕はパスミスをしてしまったけれど、ああいう場面で田臥さんは点数につながるプレーを選択して、アシストも決めている」と展開を悔いていた。

 栃木のコーチ、選手に勝因を尋ねると口を揃えて「ハートの強さ」、「チーム力」と言った言葉で内面を挙げていた。22点差をひっくり返した千葉との準々決勝第2戦が好例だろうが、栃木は悪い流れの中でも攻守で個人プレーに走る選手がおらず、決してソリッドなバスケが崩れなかった。ファイナルもそうだったが、栃木は逆転勝利が多く、終盤になると決まって“彼らの流れ”になる粘り強いチームだ。それは08年から栃木でプレーする田臥や、トーマス・ウィスマンヘッドコーチが築き上げたカルチャーなのだろう。

満員のアリーナに地上波放送も行われた一発勝負

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 決勝戦は開幕戦に続いて代々木第一体育館のチケットが完売し、10144人の観客で埋まった。LEDコート、有名アーティストのライブなど華やかな仕掛けがあった開幕戦に比べると演出は控えめだった。一方で客席の7割を栃木の黄色を埋めるなど、プレーの一つ一つに反応し、ファンがチームと一緒に戦う空気と熱があった。

 昨季はbjリーグのファイナルが一発勝負、NBLのファイナルが3戦先取方式で行われていた。新生Bリーグのチャンピオンシップはbjリーグに近いフォーマットが取り入れられ、ファイナルも一発勝負だった。

 バスケはサッカーやラグビーに比べると試合の間隔を詰められる種目。勝負の醍醐味、入場料収入を考えれば試合数を増やした方がいいのは当然のことだ。したがって将来的には3戦先取、4戦先取と一発勝負ではない方式になることが理想だろう。

 しかし現状を考えれば“一発勝負”のメリットが大きい。代々木第一のような大きなアリーナは供給がひっ迫していて、長期間抑えることがなかなか難しい。しかも2年後、3年後に向けて早く予約する必要があり、1年、2年で日程を変えることは無理だ。また連勝などで早く決着した場合のキャンセル料、逸失利益も当然ある。そして大きいのがテレビの中継枠問題。今回のファイナルでは開幕戦に続き、フジテレビによる地上波生中継が行われていた。

 プロ野球の日本シリーズでさえカードによっては中継局を見つけるのが難航する時代に、バスケが中継枠を取ることは容易でない。一方でBリーグという発展途上のエンターテイメントにとって、地上波を通した一般視聴者に対するアピールは必要性が高い。実際に今回のファイナルを見て、栃木と田臥の魅力に気づいたと熱く?語る知人が自分の近くにもいた。

 ファンのことを考えれば、日本シリーズやNBAファイナルのように、両クラブのホームで交互に試合をするべきだ。しかし万単位のキャパシティを持つアリーナは現状だと首都圏にしかない。代々木第一でさえBリーグファイナルの場としては明らかに不足で、中長期的には埼玉アリーナか、東京五輪用に建設される新アリーナを活用することになるだろう。

 そういうアリーナが全国に揃い、平日に開催してもお客で埋まる。そしてテレビもBリーグのためにゴールデンタイムを喜んで空けるという“国民的スポーツ”になるまで、ファイナルに関しては今の仕組みが賢いやり方なのだろう。


大島和人

1976年に神奈川県で出生。育ちは埼玉で、東京都町田市在住。早稲田大在学中にテレビ局のリサーチャーとしてスポーツ報道の現場に足を踏み入れた。卒業後は損害保険会社、調査会社などの勤務を経たものの、2010年から再びスポーツの世界に戻ってライター活動を開始。バスケットボールやサッカー、野球、ラグビーなどの現場に足を運び、取材は年300試合を超える。日本をアメリカ、スペイン、ブラジルのような“球技大国”にすることが一生の夢で、球技ライターを自称している。