[引退インタビュー]竹野明倫(西宮ストークス)ケガで終わったキャリア、新たな挑戦に「ワクワク」の一歩を踏み出す
竹野明倫が故郷福岡でプロ選手になったのは2008年のこと。以後、強気のゲームコントロールと抜群のシュート力を備えたポイントガードとしてbjリーグのスターとなった。秋田ノーザンハピネッツに加入した2014-15シーズン途中に左ひざ前十字靭帯断裂の重傷を負い、1年近くの戦線離脱。翌シーズン後半に復帰し、bjリーグ最後のファイナルズまで秋田を牽引した。 そしてBリーグ初年度、竹野はB2の西宮ストークスに移籍し、キャプテンを任される。天日謙作の下、ペースの速い攻撃的なスタイルにフィットし、B2中地区で首位争いを演じる主役となった。ところが今年に入って早々の1月2日に左ひざ前十字靭帯を再び断裂。チームはプレーオフを勝ち抜きB1昇格を果たしたものの、竹野は現役キャリアに終止符を打とうとしていた。 シーズン終了後の6月5日に竹野は現役引退を正式に発表。同時に西宮のアシスタントコーチになることが発表された。竹野に引退の思い、1シーズンだけ過ごしたBリーグのこと、そして10年間のキャリアを振り返ってもらった。 「天日さんの下で勉強したい、それに尽きますね」 ──今シーズン限りでの引退を決断しました。理由はやはりケガですか。 はい。2シーズン前に左ひざの前十字靭帯を切っていて、今シーズンに2回目の断裂をしてしまったことが理由になります。プレーをするにはまた手術しないといけない状態でした。手術してリハビリをして、復帰するまでにまた約1年かかります。というところでコーチという道を「どうですか」と言っていただいたことがきっかけになりました。 西宮に来た今シーズンはケガの影響もなく、むしろ120%の状態でプレーできていました。それに天日さんのバスケットが新鮮だったんです。単純に「大好きだ」と思いましたね。すごく基本的なことですが、しっかりと考えられているし、アメリカナイズされたバスケットで自分に合うと感じていました。 ──そもそも、秋田から西宮に移籍して、BリーグがスタートするのにB1ではなくB2でプレーするのは問題ではなかったのですか? もちろんB1が良かったのですが、特にどこのチームに行きたいということでもありませんでした。それ以上に、プロの世界に6シーズンいなかった天日さんが西宮のコーチになると聞いた時に「これはチャンスだ」と思ったんです。大阪エヴェッサと対戦していた頃から面白いチームだと思っていたのは事実です。実際にbjリーグでは3連覇していましたから。 そして、西宮に来てみたら新しい発見の連続で、「俺、もっとうまくなれるやん!」と思うことばかりでした。ストレングスコーチの福田(悟志)さんのウェイトトレーニングの厳しさにも正直驚きました。びっくりしましたけど、今になって思うと前十字の手術をしてリハビリの段階から福田さんと一緒にやれていたら、もっと違ったかなと思います。いずれにしても、2部だからという不満は全くなかったですね。 ──でも、それだけにこのタイミングで現役を引退するのは不本意だったのでは? 「まだやれる」という声が多いと思いますが。 たくさんの人にそう言ってもらいました。「まだできるよ」と言ってもらえるのは素直にうれしいし、続けるかどうかの葛藤は確かにありました。でも、もうないです。シーズン後半、天日さんたちの後ろで椅子に座って、ミーティングにもコーチングスタッフの側で入れさせてもらって、コーチ目線の楽しさを感じてしまったので。戻りたいと考える余地がないぐらいでした。 だから、手術してリハビリしてプレーに戻るよりも、コーチとしてのセカンドキャリアのことを考えてワクワクしているんです。天日さんの下で勉強したい、それに尽きますね。 「西宮のバスケットでB1を戦うのを楽しみにしています」 ──西宮はBリーグ最初のシーズンで見事に昇格を果たしました。天日コーチのバスケットが昇格の原動力と言えますか? そうですね。そのバスケットがあったからこそ今の西宮があります。ベースとなる自分たちのバスケットを、指示を通して極めていくというのが基本的なところにあります。速いバスケット、チームで戦うバスケットですね。 昇格という目標を達成できた要因を一つだけ挙げるのは難しいです。でも、成績があまり良くないチームに負けることが何度もあって、その負けが今シーズンの西宮を作ったと思います。どうして強くないチーム、調子の良くないチームに負けてしまったのか。それを考えることで「じゃあ、勝つにはこうするしかない」というのがチーム全体で分かるようになって。勝つ要因と負ける要因がはっきりしたから勝てた、B1に昇格できた、というのは間違いなくあります。 ──西宮のスタイルはチームバスケットだと誰もが言います。ただ、チームのまとまりを作るのは言葉で言うほど簡単ではありません。 そこは天日さんがすごく強調していました。「俺たちは個々でプレーするようなチームじゃないぞ」と。それを言うだけじゃなく、選手起用でコントロールしていたところもありました。 ──来シーズンはB1での戦いですが、西宮のバスケットはどこまで通用するでしょうか? 僕は通用すると思っています。それぐらいのレベルのバスケットボールをしています。もちろん、通用するところもあるし、もっと改善しなければならない部分も出てくるでしょう。でも、それはシーズンを通してチームが大きくなれると考えればプラスでしかない。やってみないと分からない部分はありますが、僕は今の西宮のバスケットでB1を戦うのを楽しみにしています。 ──選手からコーチへと立場が変わって、どういう形でチームに貢献できると思いますか? 選手の気持ちとしては、天日さんから直接聞くのと、アシスタントコーチの僕から聞くのでは、同じ内容でも重みが違うんです。内容は伝えたいけど、重みは感じて欲しくないな、と感じた時があるんですが、そういう時には天日さんの手助けができます。アシスタントコーチならではの選手との関わり方を担っていければと思っています。 実際に関わって思うんですが、天日さんは選手への言い方やタイミングをものすごく考えています。そういうところも勉強だし、近くで学んでいければと思います。 ──コーチとしての将来像はどのように描いていますか? プロの世界でやるからには勝っていきたいです。でも、1シーズンを終えて勝てなくても、選手が「このシーズンはめっちゃ充実してた」と言ってくれるチームにしたいです。そうできるように頑張ります。 バスケットボールが今の自分を作ってくれた ──選手としてのインタビューは最後なので、キャリアについて聞かせてください。振り返ればどんな現役生活でしたか? 「よくやったな」と思います。引退すると決めて、今まで以上に過去を振り返る機会が多くなりましたが、「なかなかの成績を残したな」と思います。 ──決して体格に恵まれてはいませんでしたが、ここまでのキャリアを築いた要因は何だと思いますか? クイックでシュートを打つことはものすごく、それこそ高校生の時から習得してきました。ジャンプシュートやプルアップ、ミドルレンジのシュートは中学校の時から得意でした。3ポイントシュートは高校に入った時点ではあまりうまくなくて。初めて自分のシュートを動画で撮って、入ったシュートと入ってないシュートを見比べたりしましたね。それで3ポイントシュートがうまくなったと思います。今となれば外のシュートもそうですが、中にアタックしていくプレーを覚えても良かったかなと思いますね。 ──プレースタイルを作る上で影響を受けた選手はいますか? アレン・アイバーソンですね。僕が中学や高校の時に全盛期で、小柄なのにNBAであれだけ活躍していたので参考にしました。と言うか、真似ばかりしていました(笑)。 ──日本の選手で影響を受けたのは? 大学で一緒だった阿部(友和/千葉ジェッツ)ですね。そんなに頻繁に連絡を取るわけじゃないんですけど、スタッツは気にしていて、「点数取ってるな」とか。途中でケガをして大変なシーズンには心配したりして。 もう一人は同じ福岡出身の青木康平さんです。当時は僕が新潟にいて、康平さんが東京アパッチにいて、同じカンファレンスだから試合数も多いし、ポジションも同じだからマッチアップするんです。だから「どうにかして止めてやろう」、「どうにかして決めてやろう」と思っていました。そういうモチベーションがあったおかげで、東京との試合ではいつも良いプレーができました。勝手な自分の感覚ですけど、康平さんは「先輩後輩の関係とか、コートでは関係ない」という空気を出してくれていた気がするんです。だから僕も「倒しに行く」と思ってやっていました。その後は同じチームになって、また違う形ですごく勉強させてもらいました。 ──バスケット人生を一言で表すと? 今の自分を作ってくれたのはバスケットボールです。オンコートだけじゃなく、オフコートでの家族や友達も含めて、いろんな人との接し方はバスケットボールで出来上がったものです。 ──では最後に、応援してくれた皆さんへのメッセージをお願いします。 本当に感謝しかありません。個人的には人付き合いが下手と言うか、苦手と言うか、そこに行くまでに壁を作ってしまうタイプだったので、良く思わない人もいたかもしれないですけど、そんな人も含めて皆さんが見てくれていたからこそ、今の自分がいると思っています。一人でも多くの人に「竹野はすごい」と思われたいという気持ちでやってきました。皆さんがいたからこその現役10シーズンだったと思います。ありがとうございました。
文=古後登志夫 構成=鈴木健一郎 写真=西宮ストークス、B.LEAGUE