村主章枝について
©Getty Images名前 | 村主章枝(スグリフミエ) |
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生年月日 | 1980年12月31日 |
国 | 日本 |
出身 | 千葉県千葉市 |
プロフィール | 先祖は18代続く酒のこうじ造り職人。6歳でフィギュアを始め、清泉女学院中・高を経て、早大に進学。1995-1996年世界ジュニア選手権4位、NHK杯6位、1996年の全日本選手権は4位。
1997年1月の全日本フィギュアでショートプログラム3位から逆転、初代女王の座に就く。同年11月NHK杯5位。1998年12月NHK杯3位。1999年1月国際オープン5位。同年2月韓国冬季アジア大会3位。2001年4大陸選手権で優勝し、日本人として7季ぶりの国際大会優勝となった。 妹は元プロスケーターの、村主千香。新横浜プリンスFSC。157センチ、44キロ。 |
ジュニア時代からライバルだった荒川静香としのぎを削る
村主章枝は、千葉県生まれの横浜市育ちでしたが、3歳からの約3年間をアラスカで過ごしたことから自然とウィンタースポーツに触れ合うことになりました。日本に帰国後、6歳で新横浜プリンススケートセンターのスケート教室に入会し、フィギュアスケートを始めます。佐藤ゆか、八木沼純子らも所属していたという好環境にも恵まれ、その才能を伸ばしていきました。
小学6年生で全日本ジュニア選手権に初出場するなど、順調に成長しましたが、同世代に強力なライバルがいました。それは1学年下だった荒川静香です。ともに中学生として出場した全日本ジュニア選手権では、荒川が3連覇を飾る中、自身は2年連続2位と後塵を拝していました。
わずか1名だった長野五輪の女子シングル枠を逃す
清泉女学院高等学校1年生となり、ライバルより一足先に全日本選手権の出場権を得ると、16歳にして同大会を制し初優勝を成し遂げます。しかし初出場となった世界選手権では総合18位(日本女子トップ)と力を発揮できず、結果的に長野五輪の女子シングル出場枠はわずか1名に減るという事態を招いてしまいました。
こうしてオリンピックイヤーの1998年を迎えます。オリンピック出場の為には、全日本選手権を連覇したいところでしたが、直前に怪我を負いハンデを背負っての出場となります。ショートプログラム(SP)で首位発進と流石のスケーティングを見せましたが、フリーでは転倒が響き悔しい総合2位で終わりました。同大会で初優勝した荒川が、長野五輪、そして世界選手権の代表の座を獲得するという相当悔しい時期となってしまいました。
夢の五輪初出場を掴むと、本戦でも健闘し5位入賞
ライバルに先にオリンピック出場という夢を実現された村主章枝は、その後の全日本選手権でも2年連続で荒川に次ぐ2位に甘んじます。それでも、氷上の女優(アクトレス)と称されたスケーティングはスピード感を増し、四大陸選手権では日本女子最高位の5位を確保し、自身2度目の世界選手権にも出場しました。1999年に早稲田大学進学と同時に、佐藤信夫のコーチングを受け始めると、2000年の全日本選手権で3季ぶりの優勝を奪還します。さらには四大陸選手権で初優勝を挙げるなど、日本の第一人者として活躍を続けました。
世界選手権でも自身最高の総合7位という成績を収め、ソルトレイク五輪の日本女子代表枠2名確保に自ら貢献しました。そのうち1名は恩田美栄が内定し、残り1名をかけてまたしてもライバル荒川と争う構図となります。しかし村主は、全日本選手権をSP1位、フリー1位で完全優勝し連覇を達成しました。こうして念願だった自身初のオリンピック出場が確定します。五輪本番でも、恩田が総合17位と大きく順位を落とす中、特にフリー演技で得点を伸ばして、5位入賞と大健闘を見せました。
奇跡の大逆転でトリノ五輪出場を決め、4位入賞を実現
©Getty Imagesソルトレイクオリンピックで自信をつけた村主章枝は、その後も高いレベルで好調を維持します。全日本選手権3連覇に、四大陸選手権でも2度目の優勝など出場する大会でことごとく表彰台に上り、世界選手権でも銅メダルと結果を残し続けました。2003-2004年シーズンにはさらにギアがあがり、3度目の出場となったグランプリファイナルで日本人選手初制覇という快挙を達成します。さらに翌シーズンでは、四大陸選手権で3度目の優勝、世界選手権でも日本人最高の総合5位に入り、トリノオリンピック日本女子代表枠3名の獲得に大健闘しました。村主は、2大会連続で日本女子の代表枠増に一役買っていたのでした。
しかし、2度目のオリンピックを目指す上では、自身のピークが早過ぎた感がありました。さらに故障や所属先の変更など悪条件が重なり、五輪選考試合で実力を発揮できません。全日本選手権が最後の砦として残ってはいましたが、その時点で選考ポイントは最下位だったため、代表入りはほぼ不可能だと思われました。しかし、自らの力で奇跡を起こして、その椅子を手繰り寄せます。全日本選手権で、3連覇を狙う安藤美姫、ライバル荒川静香、15歳ながらグランプリファイナルを制していた浅田真央などを軒並み退け、逆転で5度目の優勝を勝ち取ります。まさかの大逆転で、3番目の五輪代表の椅子を獲得しました。
2大会連続出場となった村主は、日本選手団の副将に任命されます。本戦でもミスが少ない滑りでしたが高レベルな演技をすることが出来ず、SP、フリーともに4位で総合4位に終わりました。前回大会よりも順位をあげましたが、荒川が圧巻のフリー演技を見せて、同大会で日本代表唯一の金メダルを獲得します。残念ながら、荒川の引き立て役となってしまいました。
フィギュアスケート界では異例とも言える33歳まで現役続行
©Getty Imagesトリノ五輪を終えた時点で25歳だった村主章枝は、バンクーバーを目指して競技を続行します。直後の世界選手権では総合2位で銀メダル獲得と好成績を収めましたが、年齢から来る衰えもあって、低迷が始まります。2008年の全日本選手権では2位と健闘しましたが、その後は大きく順位を落とします。相次ぐコーチの変更や怪我もあって練習不足となり、バンクーバーオリンピック代表選考には漏れてしまいました。
その後も、不屈の精神でリンクに立ち続け、競技者としては異例の33歳まで現役を続行しました。しかし目標であった3度目のオリンピック出場はかなうことなく、2014年ついに現役を引退します。その後、振付師を目指しフィギュアスケート界に関わることを宣言しました。