青木愛について

名前青木愛(あおきあい)
生年月日1985年5月11日
日本
出身京都府
プロフィール元シンクロ日本代表。小学2年生の時、地元京都踏水会でシンクロを始め、元オリンピックメダリスト井村佳代が開校した、井村シンクロクラブに移籍した。井村の指導の下、小学4年生でジュニアオリンピック優勝を果たす。日本代表として2005年と2007年の世界選手権に2度選出されるが、出場機会に恵まれず「未完の大器」とも呼ばれていた。

北京オリンピック最終選考で7位通過し、最年少23歳でオリンピックに出場した。オリンピック終了後、母親のために若くして現役を退きました。現在はシンクロの普及のため、タレント、スポーツコメンテーターとして活動。テレビに出演しながら、コーチとして京都踏水会で若きシンクロ選手を指導している。

生後10カ月から始めた水泳を始め、8歳でシンクロに転向

青木愛は地元の名門、京都踏水会で生後10カ月の頃からスイミングスクールに通い、水泳を習っていました。小学2年生の頃、スクールの先輩の影響でシンクロに転向します。メイクをして、綺麗な水着を着て踊るところをお客さんに観てもらうことが楽しかったため、シンクロにのめりこみました。そして小学4年生の時に国内大会のジュニアオリンピックで優勝します。この頃から既に、選手として頭角を現していました。

中学2年生の時、井村シンクロクラブに入門しました。そこで数々のオリンピックで日本チームの指導をした井村雅代からシンクロを指導されることになりました。

井村は選手時代、日本選手権で2度優勝し、1972年のミュンヘンオリンピックに出場した経験があります。引退後はシンクロの指導者として活動し、自身でシンクロのクラブを開校しました。それが、井村シンクロクラブです。スパルタの指導で知られ、青木をはじめとしたオリンピック代表選手を多く輩出していることから、「シンクロ界の母」とも呼ばれています。

選手としても、指導者とても実績のある井村に指導された生徒の一人が青木でした。当時から長身で、シンクロ選手としては逸材だった青木を評判通りの厳しい指導で、後のオリンピック代表選手へと成長させたのです。

最年少で北京オリンピック出場を決める

国際大会では補欠で止まることがほとんどだった青木は、2005年の世界選手権モントリオール大会で代表に選出されました。そんな時に肩を負傷し、離脱を余儀なくされました。失意のどん底にいたそんな時、青木の通院にずっと付き添ってくれていたのが、当時中国のヘッドコーチを務めていた恩師・井村でした。そこでリハビリをマンツーマンで指導してもらい、翌年のワールドカップに代表として出場することができました。大会では銀メダルを獲得しました。

そして青木は、2年後に開催される世界選手権メルボルン大会の代表にも選出されました。しかし補欠に回ったため、出場機会に恵まれなかったため、出番はなく、再び悔しい思いをするのでした。身長も高く、才能に恵まれながらも大舞台では活躍することができず、いつしか「未完の大器」と揶揄されるようになりました。

半年後には翌年開かれる北京オリンピックのための選考会が開かれました。選考会には13人の選手が選ばれ、青木もその中の一人に選ばれました。オリンピックへ出場するための条件は、選ばれた13人中から9位以内に入ること。しかし一次選考では11位と選考外の可能性がありました。

背水の陣で迎えた最終選考では、緊張することなく臨み、見事7位通過をしました。当時21歳だった青木は最年少での北京オリンピック出場を決めました。

オリンピックの結果は5位で、メダルには届きませんでしたが、目標だったオリンピック出場を遂に果たしました。5位だったとはいえ、次のロンドンオリンピックではメダル獲得につながる結果でした。ロンドンの時には青木は27歳になります。選手としても一番調子の良い年齢のため、大きな期待が寄せられていました。しかし青木のシンクロ選手としてのキャリアはここで終わりを迎えました。

北京を最後に、若くして現役を引退したその理由とは

青木はオリンピック直後に、若くして現役引退を表明しました。その理由は2つで、北京オリンピックを最後に、目指す先輩がいなくなったことで、無力感に襲われたことです。もう一つは母の最期を看取るために引退したと明かしています。

青木の母は、北京オリンピック以前から体調が思わしくなく、もう先は長くないといわれていました。癌が脳に何ヶ所も転移していたため、気圧の関係で飛行機さえ乗ることが危険な状態でした。それにもかかわらず、「オリンピックに連れて行ってほしい」という娘との約束を守るために、無理をして北京へと足を運んだのです。

そんな母のためにも、今度は自分が側にいてあげたいという思いが強くなりました。このまま現役を続けていては合宿などで家を空ける日が多く、母の最期を看取ることが難しいと判断し、23歳という若さで引退を決断しました。その決断に後悔することはなかったそうです。青木の母は、翌年の2009年1月2日に息を引き取りました。あのまま続けていたら母を見送ることはできなかったと、青木は番組のインタビューで発言していました。

引退後はシンクロを更に広めるため活動する

青木は現役引退後、京都踏水会でコーチをする傍ら、タレント、スポーツコメンテーターとして活躍しています。タレントとして活動するようになったその理由は、母のためでした。引退後、青木にスポーツ番組への出演オファーが来ました。その番組への出演を承諾し、テレビでオンエアされた番組を母と病室で見たときにとてもうれしそうな顔をしていたことがきっかけで、タレントへ転身しました。現在はタレント、スポーツコメンテーターとして、レギュラー番組を持ち、シンクロだけに限らず、様々なスポーツを盛り上げ、普及させるためにも精力的に活動しています。

また、指導者として京都踏水会でコーチとして活動しています。週に1~2日、小学4年生から中学1年生の生徒に教えています。青木は基本的に、生徒を褒めません。本人曰く、褒めてしまえばそこで終わってしまう。まだまだできるだろうという期待も込めて敢えて褒めないそうです。青木は来たる東京オリンピックのため、そしてその先のためにも、今もシンクロの楽しさを広めようと貢献しています。


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