青木宣親について
名前 | 青木宣親(アオキノリチカ) |
---|---|
生年月日 | 1982年1月5日 |
国 | 日本 |
出身 | 宮崎県日向市 |
プロフィール | 宮崎県に生まれ、小学1年生から野球を始める。日向高校時代まで投手を務めるが、甲子園出場は叶わなかった。早稲田大学に進学すると外野手に転向し打者として頭角を現す。3年秋に首位打者を獲得し、史上初の4連覇も達成。
2003年ドラフト4巡目指名でヤクルトスワローズに入団。2年目から一気に頭角を現し、シーズン202安打で首位打者と新人王を受賞。その後も、安打製造機として3度の首位打者、史上初となるシーズン200安打を2度達成。2012年からはポスティングシステムを行使してメジャーリーグに挑戦。ブルワーズ時代から3年連続でレギュラーとして規定打席に到達。2014年からは毎年所属チームを代えつつも存在感を示している。2017年からはアストロズに所属。WBCには第1回(優勝)、第2回(優勝)、第4回(ベスト4)と3度出場。 NPB時代の通算成績は985試合、3,900打数1,284安打、84本塁打、385打点、164盗塁、打率.329(2016年まで)。首位打者3回、最多安打2回、盗塁王1回、最高出塁率2回、新人王、ベストナイン7回、ゴールデングラブ賞6回。MLB時代の通算成績は649試合、2,380打数681安打、28本塁打、184打点、88盗塁、打率.286(2016年まで)。日向高校卒、早稲田大学卒、右投左打、175cm、81kg。 |
早稲田大学時代に打者として頭角を現し、史上初の4連覇に貢献
青木宣親は宮崎県に生まれ、そして小学1年からチームに入って本格的に野球を始めました。6年生では投手として県大会で優勝をするほど頭角を現しました。中学時代は、主だった成績を残せず、地元の進学校・日向高校に進学します。2年生で早くもチームのエースに就任しましたが、3年夏の県大会ではベスト8止まりで甲子園出場は叶いませんでした。この時点でプロ入りの実力はなく、指定校推薦枠で早稲田大学へ進学しました。
すぐさま外野手に転向し、この4年で芽が出なければ就職を考えて野球に取り組みます。すると3年秋には打率.436で首位打者を取るほどの活躍をみせました。同期や近い学年に後にプロ入りする選手を多く備えた早大は、史上初の4連覇を達成します。この間、青木は不動の2番打者として定着し、ベストナインも4度受賞しました。
2年目にシーズン200本安打を達成し、第1回WBC優勝にも貢献
2003年、早稲田のラインナップを固めていた同期たちと共に、青木宣親はプロ入りします。ヤクルトスワローズからドラフト4巡目指名で入団しました。ルーキーイヤーは、一軍試合出場は10試合に留まりました。しかし二軍では、一軍の登竜門といわれるフレッシュオールスターでMVPに輝き、首位打者に最高出塁率も獲得、21盗塁と俊足も披露しました。
そして2年目の2005年から、外野手のレギュラーを獲得します。6月以降に1番に定着すると安打を量産し、史上2人目、セ・リーグ初となるシーズン200安打を達成しました。最終的には202安打を放ち、首位打者、最多安打のタイトルを奪い、文句なしで新人王、ベストナインに選出されました。
一気に安打製造機として名乗りを上げると、2006年、第1回WBC日本代表にも選出されます。6試合に出場して日本の優勝に貢献すると、続くシーズンでも結果を残しました。192安打を放ち前年に続いて最多安打のタイトルを獲得し、41盗塁と俊足ぶりも存分に見せます。打率.321はリーグ3位でしたが、赤星憲広の6年連続を阻止する初の盗塁王に輝き、25歳にして球界を代表する選手へと成長しました。
安打製造機は、3度の首位打者に史上初のシーズン200安打を複数回達成
その後も、青木宣親は高いレベルで毎年のように好成績を残していきます。2007年、193安打を放ち、打率.346で自身2度目の首位打者を獲得しました。同年には本塁打も20本を越えています。その後も、首位打者こそ取れなくとも必ずリーグ10傑に入る打率を残し、2010年には、史上初となる2度目のシーズン200安打を達成する209安打を記録します。打率もキャリアハイの.358まで伸ばし、3度目の首位打者にも輝きました。
そして第2回WBCでは、主力として活躍します。本職ではない左翼手を務めながら、全9試合に3番打者として出場し、打率.324、チームタイの7打点で日本の連覇に大きく貢献しました。大会後には、ベストナインにも選出されました。こうした安定した成績も合って、2010年、球団からはミスタースワローズの象徴でもある背番号1を譲り受けました。
メジャー挑戦後は、毎年所属が代わるジャーニーマンとして活躍
青木宣親は、日本通算8年間で打率.329という高い数字を記録し、2011年オフにポスティングシステムを行使してメジャー移籍を表明します。ミルウォーキー・ブルワーズと2年契約を締結し、開幕スタメンこそ逃しましたが、5月からはスタメンに定着します。日本での安打製造機ぶりはメジャーでも健在で、1年目から規定打席に達して150安打、10本塁打、30盗塁を記録しました。2年目は開幕スタメン1番としてスタートし、171安打と前年よりも安打数を積み重ねます。3年目は延長オプションで球団に残りましたが、開幕前にトレードでカンザスシティ・ロイヤルズへ移籍します。ここでも開幕から1番打者として活躍し、最後まで地区優勝争いに参加しました。あと1勝で地区優勝を逃しましたが、プレーオフは怒涛の8連勝でワールドシリーズへ進出します。しかしワールドシリーズの舞台では、14打数1安打に終わり、チームも敗退してしまいました。
青木はメジャー4年目もチームが代わるという、まさにジャーニーマンとなりました。2015年からは前年までの5年間で3度の世界一を達成しているサンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍しますが、アクシデントが続きます。リードオフマンとして順調に試合出場していましたが、6月に死球骨折、さらに8月には頭部に死球を受けて戦線を離脱しました。この後も脳震盪に近い症状も出た為、シーズン復帰することなく終了し、メジャー4年目にして初めて規定打席に到達しませんでした。2016年は、またしても所属チームが代わり、シアトル・マリナーズへ移籍します。しかし、前年の死球が影響したのか、打撃は好不調の波が大きく、メジャー5年間でワーストの数字に終わりました。
2017年、メジャー5球団目で日米通算2,000本安打を目指す
メジャー生活6年目の2017年を、自身5球団目となるヒューストン・アストロズの選手として迎えます。そしてシーズン前には、第4回WBCに日本代表として出場しました。初めて出場した第1回は24歳でチーム最年少でしたが、今回は35歳でチーム最年長となりました。唯一のメジャーリーガー選出であり、ナインをリードする主将的な役割も求められました。しかし、自身は打率1割台と活躍できず、日本も準決勝で敗れました。
また、2017年6月11日の対エンゼルス戦(ヒューストン・ミニッツ・メイド・パーク)で日本人選手で史上7人目となるNPB/MLB通算2000本安打を達成しました。