藤川球児について

名前藤川球児(フジカワキュウジ)
生年月日1980年7月21日
日本
出身高知県高知市
プロフィール小学3年から野球を始め、4年からバッテリーを組む兄とともに高知商に進学。1997年夏の甲子園に出場し、高校野球史上25年ぶりの兄弟バッテリーとして話題になった。最速156キロのストレートのほか、カーブとフォークにも定評がある。

1999年のドラフトで阪神に入団。しばらくの間を二軍で過ごし、2004年から一軍に定着。2005年、JFKの一角として中継ぎに抜擢され当時のプロ野球記録である80試合に登板。46ホールドで最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。翌年も同タイトルを獲得すると、2007年からクローザーに転向。いきなり日本歴代最多タイの46セーブでセーブ王を獲得。2011年、2度目のセーブを獲得するなど、通算200セーブを達成。

2013年からは海外FA権を行使してメジャーリーグに挑戦。シカゴ・カブスと契約し、開幕戦で初セーブをあげるも、早々に右肘を故障。トミー・ジョン手術を余儀なくされシーズンを棒に振る。翌年メジャー復帰するも、再び故障者リスト入りするなど、戦力になれないままチームを去る。その後レンジャースと1年契約するも、状態は改善せず5月に戦力外通告を受ける。2015年6月、日本に復帰して独立リーグ・高知ファイティングドッグスへ入団。2016年から古巣である阪神に復帰。同年は先発スタートも、途中からリリーフに再転向。2017年もセットアッパーの一角として活躍中。

NPB時代の通算成績は605試合、47勝31敗223S、112ホールド、防御率2.00、755回0/3、984奪三振(2016年まで)。最優秀中継ぎ投手2回、最多セーブ投手2回。

MLB時代の通算成績は29試合、1勝1敗2S、1ホールド、防御率5.74、26回2/3、32奪三振。高知商卒、右投左打、183cm、86kg。

兄弟バッテリーで甲子園に登場し、ドラフト1位指名を得る

藤川球児は高知県に生まれ、小学3年生から野球を始めます。球児という名も、父が草野球でノーヒット・ノーランを達成した翌日に生を受けた為と野球との縁は深いものでした。当時から投手を務め、一つ上の兄・順一と小学4年からバッテリーを組み、切磋琢磨しながら育ちました。

兄と同じ高知商業高校へ進学しても、その関係は変わらず自身2年夏には甲子園に出場します。右翼手兼控え投手でしたが、1回戦で好リリーフして勝利に貢献すると、2回戦では先発として抜擢され、兄弟バッテリーとして注目を浴びました。優勝候補の一角だった平安高校と対戦し、初回に4失点と崩れましたが8回で10奪三振と投手としての片鱗を見せていました。甲子園出場はこの一度に終わりましたが、明徳義塾の寺本四郎(元ロッテ)、高知の土居龍太郎(元横浜)らと高知三羽ガラスと呼ばれ、高校日本選抜にも名を連ねます。そして1998年、怪物・松坂大輔が話題を独占したドラフト会議で、阪神タイガースの1位指名を受けて入団しました。

火の玉ストレートを武器にJFKの一角として大活躍

藤川球児は一軍で活躍するようになるまでに、多くの時間を要しました。星野仙一監督が着任した2002年、期待の若手として12試合に先発しましたが、プロ初勝利の1勝のみに終わります。活躍の兆しが見えたのは、2004年シーズンの後半です。フォーム改造を敢行し、中継ぎへの転向を図ったことで一軍に定着しました。

そして2005年は、藤川にとって飛躍の年となります。中継ぎに定着して初めてフルシーズンを乗り切り、当時のプロ野球記録を超える80試合登板を達成します。ジェフ・ウィリアムズ、藤川、久保田智之の3人のリリーフは頭文字を取って「JFK」と呼ばれ終盤の3イニングを完璧に押さえるという勝ちパターンが出来上がりました。藤川は7勝1敗1S、46ホールド、防御率1.36で最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得し、チームの優勝に貢献します。翌年はさらに安定感を高め、途中久保田に代わってクローザーも務めます。同年は5勝0敗17S、30ホールドで2年連続最優秀中継ぎ投手となり、防御率は圧巻の0.68という数字でした。同年は44年ぶりに球団の無失点記録を47回2/3まで伸ばす新記録も樹立しました。

藤川の武器は、火の玉ストレートと呼ばれた、打者がわかっていても打たれない直球です。空振りを奪うボールは、そのほとんどがバットの上を通過するという恐ろしい軌道を描いていました。オールスターゲームでも予告して投げたにもかかわらず、パ・リーグの強打者からことごとく空振りを奪うほどで、藤川の人気もうなぎ上りとなりました。

クローザーとしても活躍、7年で通算200セーブ越え

2007年からは安定感を買われ、久保田智之に代わって藤川球児がクローザーに固定されます。するとJFK各々が成績を残します。久保田は日本記録の90試合登板で最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得、ウィリアムスも40ホールドを積み上げて通算100ホールドを達成、そして藤川は日本歴代トップタイの46セーブをマークしました。リリーフ投手ながら、史上初の3年連続100奪三振も達成して初のセーブ王に輝きます(久保田の90試合登板、藤川の46セーブは2016年現在も日本記録)。

阪神のクローザーは、日本代表としても多くの試合を経験します。2006年第1回WBC、2008年北京五輪、2009年第2回WBCとあらゆる国際大会で代表に選出されます。また2007年オフから、メジャーリーグ挑戦を表明し続けましたが、ポスティングシステムを行使しての早期チャレンジは実現しませんでした。以降も阪神のクローザーを長年務め、2011年には41セーブで2度目のセーブ王のタイトルを奪います。史上初の通算100ホールド、100セーブも達成し、2012年には通算のセーブ数を200にまで伸ばします。そして同年に海外FA権を行使してメジャー挑戦が現実のものとなりました。

夢のメジャーリーグ挑戦は、右肘怪我との戦いに終わる

2012年末、シカゴ・カブスと最大3年の契約を交わし、希望を胸に海を渡ります。開幕戦に早くも初登板し、わずか2球で初セーブをあげるという好スタートを切りました。チームの正クローザーの座を射止め、初勝利もマークしましたが、開幕から2週間と経っていない4月、右肘の故障で故障者リスト入りします。診断の結果、右肘靭帯の断裂が発覚し、長いリハビリを強いられるトミー・ジョン手術を受けることとなります。この瞬間メジャー1年目は終了し、ここから長い怪我との戦いがスタートしました。

約1年間を棒にふり、2年目にメジャー復帰して15試合に登板しましたが、何度も故障者リスト入りします。まったく戦力になれず、カブスは3年目の契約を行使しませんでした。このまま終われない藤川球児は、テキサス・レンジャースと1年契約を交わし復活を期しました。しかし怪我の状況は改善せず2試合の登板に留まり、5月末に戦力外通告を受けます。結局、メジャー2年強で残した数字は29試合、1勝1敗2S、1ホールド、防御率5.74とほろ苦いものとなりました。

地元高知での独立リーグで野球人生をリスタート

レンジャースを退団した時点で34歳だった藤川球児は、古巣阪神への復帰が噂されました。しかしリスタートの地に選んだのは、誰もが驚いた独立リーグでした。こうして2015年6月、四国アイランドリーグplusの、高知ファイティングドッグスへ入団しました。地元の英雄の入団で、観客は大幅に増えました。もちろん、藤川もプロ野球界へ復帰する為に、腕を振ります。後期シーズンの9月には先発としてマウンドにあがり、完封勝利を達成するというモデルチェンジも披露しました。

古巣阪神に復帰すると、先発にリリーフとフル回転

2015年オフ、阪神監督に球団OBの金本知憲が就任します。そして藤川は阪神、ヤクルトとの二者択一から古巣を選択し、2年契約を締結して復帰を果たしました。この時点で、阪神には2年連続セーブ王となったクローザー・呉昇桓がいたこともあって、藤川は先発として期待されます。しかし呉との交渉は決裂し、後任には未知数の新外国人に期待せざるを得なくなりました。

2016年シーズンが開幕すると、第3戦の先発を任されます。しかし、スタミナ不足もあり、5試合の先発登板で結果を残せませんでした。そこからはリリーフへ再転向し、一時はクローザーも務めます。その後はセットアッパーとして登板するなど、年間で様々な配置転換を経験しました。かつての球威は衰えたものの、高い奪三振率は健在であり、同年は5勝6敗3S、10ホールド、防御率4.60で復帰1年目を終えます。2017年中には37歳を迎えますが、同年もセットアッパーとして、松坂世代の一人としても大いに期待されています。


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