板東英二について

名前板東英二(バンドウエイジ)
生年月日1940年4月5日
日本
出身旧満州・虎林
プロフィール満州で生まれ、終戦で徳島県へ引き揚げる。徳島商に進学し、1958年夏の甲子園、準々決勝の対魚津高戦では延長18回を投げ抜き、引き分け。翌日再試合となり、計83奪三振の記録を残す。決勝で敗れたものの、翌1959年中日に入団。

リリーフで活躍し、11年間在籍して77勝65敗、防御率2.89。1970年CBCの野球解説者となり、以後テレビ、ラジオの司会、タレント業にと活躍。テレビは「土曜大好き830」「マジカル頭脳パワー!!」「世界ふしぎ発見」「ナイトinナイト」「興味しんしん丸」などに出演。1984年「金曜日の妻たちへ〈2〉」でドラマ初出演、平成元年には映画「あ・うん」に出演し、日本アカデミー賞助演男優賞などを受賞して話題となる。

NHK連続テレビ小説「ええにょぼ」でも好演。1994年テレビドラマ「翼をもがれた天使たち」で初主演。1998年幼年時代の思い出を綴った「赤い手」を出版。

通算成績は435試合、77勝65敗、防御率2.89、1,220回2/3、748奪三振。日本放送演芸大賞最優秀ホープ賞、日本アカデミー賞助演男優賞(第12回)、ブルーリボン賞助演男優賞(第32回)。徳島商卒、右投右打、180cm、76kg。

高校野球の延長戦ルール変更を引き起こす快投を披露

父が軍人だった板東英二は、日中戦争の最中、満州で生まれました。5歳まで満州で過ごし、終戦後父の故郷である徳島へ移り住みます。そして、小中学生の間は食に困る子ほど貧困な生活が続きました。中学に入ると家計を助ける傍ら、バレーボール部に所属します。しかし2年のとき、野球部の先輩から誘われ入部すると、連戦連勝を繰り広げるエースとなりました。

1956年、坂東は徳島商業高校に進学し野球を続けます。2年秋からは主将となり、チームを牽引しました。そして3年春、四国大会における驚きの投球で、その名前は一気に全国区になります。準決勝の高知商業戦では延長16回を一人で投げ抜いて見事勝利。さらに決勝の高松商業戦でも、延長25回完投という無尽蔵のスタミナを見せました。しかし、日本高等学校野球連盟はこの事態を重く見て、延長18回で引き分けだった時点で試合を終了し、後日再試合をするという延長戦に関するルール変更を決めます。ただ、最初にこのルールが適用されたのも坂東が投げた試合でした。

今なお燦然と輝く甲子園一大会奪三振記録83個という偉業

1958年、板東英二率いる徳島商業は5度目の夏の甲子園出場を決定します。そして同大会でまさに旋風を巻き起こしました。坂東はエースで4番として出場し、初戦から17奪三振で完封と好スタートを切ります。続く八女高校戦も1点こそ失ったものの、15奪三振で勝利しました。準々決勝の相手は、初出場だった魚津高校でしたが、エース村椿輝雄と坂東との行き詰る投手戦が展開されました。打たせてとる村椿に対し、坂東は剛速球で三振の山を築きます。双方、無得点のまま延長戦に突入し、結局18回を0-0で終えました。坂東は同試合で25奪三振を奪い、大会奪三振記録更新への期待が大きくなりましたが、実はこの時点で肩を痛めてもいました。そして春に坂東の快投がきかっけとなった新ルールが適用され、翌日に再試合が組まれました。

さらに驚くことに坂東は300球の投げ込みを行ってから再試合に臨みます。魚津高校は、村椿の先発を回避させましたが、4回に失点するとすかさず投入しました。しかし徳島商業は再試合を3-1で勝利し準決勝に進出します。坂東は再試合でも9奪三振完投し、大会奪三振記録をあっさりと更新しました。続く準決勝でも14奪三振で勝利し、徳島商業はついに夏初優勝をかけた決勝戦までたどりつきます。ただ坂東は肩に加えて、腰も故障しており限界を超えていました。決勝戦では奪三振は3個に留まり、14安打を浴びて7失点し、優勝旗を持ち帰る事はで来ませんでした。しかし大会奪三振記録を83まで伸ばし、この大記録は2016年現在でも破られていません。

中日ドラゴンズ入りするも故障には勝てず、現役生活11年で引退

1959年、板東英二は慶應義塾大学のセレクション合格を蹴って、中日ドラゴンズ入りします。即戦力としてルーキーイヤーから、先発にリリーフにと多くの登板機会を得て4勝4敗の成績を残します。翌年は初の二桁勝利10勝をマークし、3年目の1961年には21歳にして開幕投手も務めました。同年も12勝と2年連続二桁勝利こそマークしましたが、高校時代のような奪三振マシンと化した快投は鳴りを潜めました。甲子園で投げていたときから故障もちであり、特に生命線である右肘はいうことを聞きません。そのため4年目以降は大きく成績を落としていました。

1964年以降、坂東はリリーフ専門投手として、再び頭角を現します。当時は、投手といえば先発完投が当たり前の時代であり、完投こそ一流投手の仕事でした。その常識を壊したのは、野村克也が南海ホークスの選手兼任監督時代に、江夏豊とともにおこしたリリーフ革命と言われています。しかし、それより約10年も早く中日では坂東を中心としてリリーフ革命を起こしていたのです。坂東は、1965年からリリーフメインながら3年連続二桁勝利をマークし、1966年からは2年連続でオールスターゲームにも出場しました。しかしプロ10年目を迎えると、右肘の故障は限界となり、同年は18試合出場でわずか1勝に留まります。翌年は、開幕戦でサヨナラ本塁打を浴びて敗戦投手スタートとなり、ついにプロ入り後初のシーズン未勝利に終わります。そして同年限りで現役生活に別れを告げました。

現役時代から選手生活と兼任して手がけていたサイドビジネス

板東英二は現役生活を11年で終えましたが、実はプロ入り後すぐに副業をしていたことでも有名です。それは、幼少期の貧困生活が原因でもあり、プロ入り後、あまりのレベルの違いに驚愕してプロ野球選手としては長くないと悟ったからでもありました。当時としては破格の2000万円という契約金を手にすると、その一部を使って牛乳販売店を買収し、選手の傍ら事業家をスタートします。

さらにジュークボックスの販売や、レジャービルを購入してサウナなどの複数事業を実施するなど、現役生活との二束のわらじを履き続けました。引退直後には、古巣中日と交渉して、その承認の元、帽子やマスコット人形の販売も手がけました。実はこれがプロ野球球団初めての公認グッズとも言われています。

引退後は華麗なる転身をし、タレント、俳優など幅広い分野で活躍

現役引退後は、その饒舌さを生かして野球解説者として人気を集めました。さらにその後の板東英二はタレントとして芸能界にも進出します。1980年代からしばらくの間、クイズやバラエティ番組の司会者や解答者として大きくテレビなどに露出しました。なかでも司会を務めた「マジカル頭脳パワー」は、9年間も続いた超人気番組となりパネラーたちとの絶妙なやり取りを見せていました。その後も、1989年には映画「あ・うん」に出演し、日本アカデミー賞助演男優賞を受賞と俳優としても大きな成果を収めました。

しかし2012年には、名古屋国税局から約7500万の申告漏れを指摘され、一気にテレビタレントとしての地位を失います。冠番組などあらゆる出演がなくなり一転して窮地に陥りました。それから約1年後に、吉本興業へ所属して芸能活動を再開し、徐々にではありますが、ラジオやテレビ番組での露出を増やしています。

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