種田仁について

名前種田仁(タネダヒトシ)
生年月日1971年7月18日
日本
出身大阪府八尾市
プロフィール小学生時代、八尾北リトルに入り野球を始める。上宮高時代、元木(巨人)と二遊間コンビを組み、1番打者として春2回、夏1回甲子園に出場、1989年センバツでは準優勝を果たす。

1990年ドラフト6位で中日に入団。1991年から一軍レギュラー。2000年代打で11打席連続出塁の日本新記録を達成、カムバック賞に輝く。2001年4月横浜に移籍。当初はユーティリティプレイヤーとして活躍すると、2004年からは二塁手レギュラーを獲得。2005年にはキャリアハイの打率.310を記録。2007年横浜から戦力外通告を受けて、2008年から西武へ移籍。しかし一軍出場機会はなく同年現役引退。その後指導者として韓国野球、楽天でコーチを務めましたが2012年初頭に退団し球界から離れる。

通算成績は1,434試合、4,176打数1,102安打、71本塁打、401打点、76盗塁、打率.264。カムバック賞1回。上宮高卒、右投右打、173cm、68kg。

上宮高校時代、甲子園決勝で自身の失策により無念のサヨナラ負け

種田仁は大阪で生まれ、小学生時代は八尾北リトルの3番打者としてプレーしていました。上宮高校に進学すると、後にプロ入りする元木大介らとともに甲子園に旋風を巻き起こします。2年春は1番二塁手としてセンバツに出場してベスト8、さらに3年春も1番三塁手として再び甲子園に帰ってきました。そして4番元木を中心にチームは勝ち続け決勝戦までやってきます。上宮高校として初の優勝をかけた決勝戦は大接戦となり1-1のまま延長戦にもつれ込みました。延長10回表、上宮が1点を勝ち越しましたが、その裏2死無走者から二人のランナーを許し、センター前タイムリーで同点に追いつかれます。しかし走者がオーバーランしており、刺そうと三塁手の種田が二塁に送球しましたが、無情にも大きくそれてしまいました。ボールが無人のグラウンドに転々とする間に、ランナーがホームインしまさかのサヨナラ負けで優勝が消え去ってしまいました。

同年夏も自身3度目の甲子園で戦うチャンスを得ましたが、準々決勝で敗れセンバツの借りを返すことはできませんでした。甲子園通算で54打数18安打の打率.333、さらに高い守備力を持つ種田は、もちろんプロから注目されます。しかし、専修大学への推薦入学が決定しており、プロ指名はかからないと思われましたが、中にとドラゴンズが6位で強行指名し、一転してプロ入りが決まりました。

2年目から名実共に中日の内野手レギュラーとして頭角を現す

ドラフト6位入団ながら、種田仁には背番号0、そして上位指名選手並みの契約金が与えられました。そして2年目から、二塁手のレギュラーを奪うと107試合に出場します。規定打席にはわずか35打席足りなかったものの、打率.272、5本塁打、13盗塁と結果を残しました。

3年目の1992年、チームの監督に髙木守道が就任すると、自身の現役時代の背番号1を与えられます。そして立浪和義と守備位置を交換して自身は遊撃手を務めるようになります。同年のセ・リーグは大混戦となり、中日は60勝70敗ながら12年ぶりに最下位に沈みました。チームが低迷する中、前年とほぼ同じ102試合に出場して存在感を示していました。そして4年目は自身初のフル出場を果たし、チームの2位に大きく貢献します。打率は.254と低いながらも10本塁打、40打点、10盗塁に29犠打と2番打者として成績を残しました。

毎年の故障でレギュラーを剥奪され、脱税事件にも関与

このまま不動のレギュラーとして君臨するかと思われましたが、種田仁は度重なる怪我でそのチャンスを逃し続けます。腰痛、右肘痛、左足首痛などで、1994年からは41、89、40試合と3年連続で100試合に到達できず、当然のようにレギュラーは剥奪されました。1996年オフには、完全復活を期待して右ひじと左足首の軟骨除去手術に踏み切ります。1997年シーズンをほぼ1年棒に振りましたが(8試合出場)、同年オフは野球以外で選手生命を終わらせかねない球界の大事件を引き起こします。

1997年オフ、プロ野球選手、Jリーグ選手の集団脱税が摘発され、中でも額の多かった選手10名が起訴されました。種田自身は起訴猶予処分となりましたが、1998年開幕から3週間の出場停止処分を受けます。背番号1も剥奪され、さらにシーズン前の交流試合では右足首を故障してひびを入れてしまうという、謹慎期間に関係なく故障で欠場する羽目にもなりました。結局1998年は43試合出場に終わり、翌1999年、チームはリーグ優勝を実現しましたが、その直前に二軍降格となり初めての胴上げ、ビールかけに参加することすら許されませんでした。

プロ11年目、自ら編み出したガニマタ打法でカムバック賞受賞

踏んだり蹴ったりのプロ人生を送り続けていた種田仁でしたが、11年目の2000年、久しぶりに一軍で躍動します。活躍しなければクビを宣告されかねない時期にきており、再起をかけて大きくバッティングフォームを改造しました。自身の欠点は体が早く開いてしまうことであったため、逆に最初から開いた状態で打とうと、通常では考えられない「ガニマタ打法」を自ら編み出しました。

するとこれが自身にフィットし、打撃成績が安定します。代打で11打席連続出塁の日本記録も樹立し、シーズン後半には3番に定着して、打率.314、7本塁打、31打点をマークしました。規定打席には到達しませんでしたが、初の打率3割を達成し、見事カムバック賞に輝きました。

横浜へ移籍するとレギュラーを奪い、2005年はキャリアハイの成績

2001年、12年目を迎えましたが、ペナントレース開幕8試合目が終了したところで、まさかのトレード宣告を受けました。同年から、横浜ベイスターズの指揮を執っていた名将・森祇晶監督の強い要望で、異例の時期にトレードが実現しました。

しかし、種田仁にとってはレギュラー復活のきっかけとなります。内外野どこでも守れ、勝負強いバッティングは大きな武器となり、ユーティリティプレイヤーとして存在感を示していきます。2002年には、9年ぶりの100安打をマークし、2004年からは2年連続で規定打席に到達するなど、二塁手のレギュラーとして活躍しました。2005年には、さらに躍進してキャリアハイの打率.310でリーグ9位の成績を残しました。

晩年は西武に移籍するも一軍出場ならず現役引退

2006年、種田仁はまたしても怪我で不振に陥ります。同年80試合、2007年60試合と出場機会が失われ、そのオフには横浜から戦力外通告を受けました。その時点で36歳でしたが現役にこだわり、西武ライオンズへ移籍します。しかし当時の西武内野陣は層が厚く、一軍出場なしに終わり、1年で現役引退を決断しました。

引退後は韓国プロ野球コーチ(2010年)、楽天コーチ(2011年)と指導者としての活躍をスタートさせていましたが、2012年1月に自身で申し出て退団します。第2の人生としてサラリーマンに転身しましたが、2016年11月、道交法違反(無免許・速度超過)の容疑で逮捕され、現役時代同様にトラブルメーカーの一面をさらしてしまいました。


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