中村剛也について

名前中村剛也(ナカムラタケヤ)
生年月日1983年8月15日
日本
出身大阪府大東市
プロフィール小学1年から寺川ブラックスで捕手として軟式野球を始め、四条中時代は大東畷ボーイズに所属。大阪桐蔭高に進学後、内野手に転向し、2年春から強打の4番打者として活躍。2001年夏は大阪府大会決勝で敗れたものの、高校通算83本塁打を記録する。

同年11月ドラフト会議では西武に2巡目で指名される。入団4年目に22本塁打を放ち頭角を現すも、その後2年間低迷。そして打撃変更して臨んだ2008年、46本塁打で初の本塁打王を獲得。翌年も48本塁打、122打点で2冠王を獲得。長距離打者にありがちな脆さも併せ持ち、その間2年連続でリーグワーストの三振を喫する。さらに統一球が導入された2011年、両リーグの強打者が軒並み成績を落とす中、ダントツの48本塁打、116打点で2冠王。2014-2015年も本塁打王を獲得し、歴代単独3位の6度本塁打王を獲得している。歴代1位の満塁本塁打16本も保持する日本を代表するホームランバッターとして活躍中。

通算成績は1,317試合、4,463打数1,141安打、330本塁打、890打点、22盗塁、打率.256(2016年まで)。本塁打王6回、打点王3回、ベストナイン6回。大阪桐蔭高、右投右打、175cm、102kg

大阪桐蔭高校時代、抜群のセンスを生かして通算83本塁打

中村剛也は、1983年、まさに超ヘビー級の4,295gでこの世に生を受けました。幼稚園児にして足のサイズは21センチにまでなり、少年野球チームの監督だった父の背中を追い、5歳から野球を始めます。食欲旺盛でさらに体は成長し、パワーあふれるバッティングで小学生時代から4番捕手と務めていました。父が夢に描く大型のホームランバッターとなるも、俊敏な動きを失うこともなかったため体型を変えさせられることもありませんでした。

自宅から程近い大阪桐蔭高校に進学すると、抜群の運動センスを見せ付けます。何のスポーツも上手にこなし、もちろん野球の実力も群を抜いていました。1年後輩の西岡剛(現・阪神タイガース)よりも盗塁のセンスを持ち合わせ、変化球打ちも当時から名人級でした。そして高校2年時に、怪我の功名でホームランを打つコツを身に着けます。骨折した指でバットを握り、まさかのホームランを記録しました。余計な力が入らない状況が功を奏し、タイミングと技術力でも打てることを実感したのでした。高校時代に甲子園経験はできませんでしたが、名門校の4番を務め、高校通算83本塁打という偉業を成し遂げました。

4年目に22本塁打と頭角を現しましたがレギュラー奪取ならず

2001年、中村剛也は西武ライオンズからドラフト2巡目指名を受けて入団します。当初は二軍暮らしが続くも、2年目にはイースタン・リーグで22本塁打を放ち、本塁打王獲得と片鱗を見せ始めていました。

そして4年目の2005年、ホセ・フェルナンデスを指名打者に追いやり、三塁手としての出場機会を多く得ます。トータル80試合出場に留まりましたが、22本塁打を放ち長距離打者としての素質を開花させました。特に交流戦では、12球団トップの12本塁打を放ち優秀選手賞を獲得し、シーズンの長打率はチームの主砲カブレラとほぼ変わらない.603を記録しました。しかし翌年は、脆さを露呈し9本塁打に終わり、2007年はさらに数字を落とし、レギュラー定着のチャンスを逃してしまいました。

バッティングスタイルを変更すると、2年連続本塁打王を獲得

2007年チームは5位と26年ぶりのBクラスに沈み、監督が伊東勤から渡辺久信に代わりました。さらにコーチ陣も一新され、新たに打撃コーチとして球団OBの大久保博元が就任します。これが中村剛也にとっては吉と出ました。前年はギリギリまで引き付けて打つバッティングスタイルでしたが、前にミートポイントを置くスタイルへ変更を勧められます。これによって三振は前年の倍近くに増えてリーグワーストを記録しましたが、46本と本塁打を量産し初の本塁打王を獲得しました。リーグ3位の101打点も記録し、一気に西武の主力へと定着します。

2009年は開幕から4番にすわり、前年同様長打力を披露します。リーグワースト三振と、最多失策を記録するものの、48本塁打で本塁打王、球団記録の122打点で打点王と2冠に輝きました。同年は打率もキャリアハイの.285を記録し安定性も大きく増していました。1試合で2本の本塁打を放つことも決して珍しくなく、入団してまもない頃好きな言葉として発した「おかわり」が由来しておかわり君という愛称も定着し始めました。

ただ一人統一球の影響を受けない異次元の本塁打数を記録

2010年は、シーズン前のキャンプから度重なる怪我で85試合出場に留まったにもかかわらず、リーグ4位の25本塁打を放ちました。そして、中村剛也が真のホームランアーチストとして再認識されたのが2011年の活躍でした。同年の日本プロ野球では、飛ばないといわれる統一球が導入されました。長距離打者といわれるバッターたちが軒並み数字を落とし、それは助っ人外国人ですら例外ではありません。セ・リーグはバレンティンが31本塁打でタイトル獲得、パ・リーグの本塁打2位は25本という中、中村が48本というまさに異次元の数字を積み上げました。

同年の千葉ロッテのチーム本塁打数すら上回り、パ・リーグ全体の10.57%を占めるという快挙をも成し遂げました。さらに驚くことに、この時の中村は死球の影響でほぼ右手一本でバットを振っていたのです。まさに高校時代にも経験した本塁打のコツをつかみ、12球団でただ一人影響を受けることなくシーズンを過ごしました。

規定打席に到達すれば本塁打王獲得率100%という驚きの事実

2012年の中村剛也は、レギュラーとなってから最悪のスランプに陥りました。打率.231、27本塁打、79打点と大きく成績を落としましたが、いまだ統一球の影響は消えず全体の成績も低調に終わり、2年連続4度目の本塁打王を獲得しました。2013年は、手術の影響でレギュラー獲得以来、ワーストの26試合に出場に終わりますが、2014年から再び復活します。2年連続で本塁打王を奪還し、6度の本塁打王獲得者として歴代3位にまで上り詰めました。

2016年、規定打席未到達で本塁打王を逃したことから、ひとつの定説が浮かび上がりました。中村は、2008年に初の本塁打王のタイトルを取りましたが、その年を含めて規定打席に到達した年は6回あります。その6回すべてにおいて、本塁打王を獲得し、打点王も3回獲得しています。つまり故障などがなくシーズンを過ごせば、100%の確率で本塁打王のタイトルを奪っているということです。

王貞治や田淵幸一などに引けを取らない本塁打率を保ち、満塁本塁打にいたっては、すでに16本と歴代1位を保持しています。すでに、330本塁打と西武球団記録のトップであり、2017年には球団の打点記録もトップに踊り出ました。本塁打王のタイトルをあと3回獲得すれば、歴代2位の野村克也の記録に肩を並べます。


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