名前川上哲治(カワカミテツハル)
生年月日1920年3月23日
日本
出身熊本県人吉市
プロフィール熊本工業時代、甲子園へ春夏3回出場。

1938年巨人に入団。初め投手だったが一塁手に転向、不動の4番打者として、戦前・戦後の巨人軍の黄金時代を築いた。首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回、MVP3回獲得。通算打率.313など輝かしい記録を残し、1958年現役引退。“打撃の神様”といわれた。1961年巨人軍監督に就任。1974年まで14年間チームを率いて11回優勝。うち1965年からは9連覇という空前の偉業を達成、巨人軍第3期黄金時代を確立した。

その後はNHKの解説者として活躍、少年野球の指導などにも力を入れた。1965年野球殿堂入り。背番号16は永久欠番。選手として実働18年、7500打数2351安打、1319打点、181本塁打。平成4年文化功労者。11年熊本県人吉市に川上哲治記念球場がオープン。

打者通算成績は1,979試合、7,500打数2,351安打、181本塁打、1,319打点、220盗塁、打率.313。首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回、最多安打6回、MVP3回、ベストナイン10回。NHK放送文化賞、東京都文化賞、スポーツ功労者(文部省)、勲四等旭日小綬章、文化功労者。投手通算成績は39試合、11勝9敗、防御率2.61、200回、97奪三振。熊本工卒、左投左打、174cm、75kg。

熊本工時代 エースとして甲子園に3度出場し2度の全国準優勝

川上哲治は、大正9年、熊本県人吉市にて生まれます。父の影響で野球を始め、小学生時代からエースで4番を務めるほどでした。その野球の腕の噂が広がり、熊本県立工業学校(現在の熊本工)野球部から誘いを受けます。ここで名捕手・吉原正喜選手と出会いさらに才能を開花させていきました。川上はエースとして、春夏あわせて3度甲子園に出場します。夏の大会は2度(1934年、1937年)とも準優勝を成し遂げました。現在も、敗者が甲子園の土を持ち帰ることが風物詩になっていますが、川上が1937年決勝で敗戦したとき、甲子園球場の土を持ち帰り母校のグラウンドに撒いたことがルーツとされています。

巨人入団後は投手と打者の二刀流で、巨人第1期黄金時代に貢献

父の勧めで門司鉄道管理局へ進むつもりでしたが、誕生したばかりのプロ野球球団・巨人軍は全国で優秀な選手を探していました。その目に留まったのが、バッテリーを組んでいた吉原正喜捕手であり獲得に成功します。そして吉原の強い勧めもあって、1938年、川上哲治も巨人軍への入団を果たしました。

高校時代の酷使で投手としては限界を迎えていましたが、バッティングの才能を認められ当初は二刀流でプレーします。自身の予想通り、投手・川上は4シーズンで11勝9敗と平凡な成績に終わりましたが、打者としては大きく覚醒しました。19歳ながら初の首位打者を奪い、その後も本塁打王、打点王、MVPなどまさに輝きを放ちます。当時のチームには、沢村栄治、ヴィクトル・スタルヒンなど大投手も揃い、6期連続優勝するなど巨人第1期黄金時代を迎えました。しかし、太平洋戦争が激しさを増し、1944年陸軍へ招聘されたことで中断を余儀なくされます。その後、終戦を迎えましたが、故郷人吉へ戻り農業を手伝っていました。

戦後復興のシンボルとして大人気を博し、打撃の神様と称される

戦後しばらくすると、プロ野球が再開されます。川上哲治も要請に応えて復帰すると一気に国民的人気となります。わずか1年しか利用しませんでしたが「赤バット」の川上、「青バット」の大下弘は戦後復興のシンボルとなり、世間に明るさを与えます。打者一本に専念すると、まさに安定したバッティングを披露していきます。復帰後13年間において、8年連続含めて10度の打率3割を達成し、3度の首位打者に輝きました(生涯首位打者回数は5度)。

1951年は、しばらくの間リーグ記録を保持した打率.377という高打率を残します。またライバル青田昇に対抗してホームラン数も増やすと、1948年には同数で自身唯一の本塁打王にもなりました。千葉茂、青田、与那嶺要らとチームを支え、日本シリーズ3連覇を成し遂げるなど、第2期黄金時代を牽引しました。

1956年には、出場1,646試合目にして、史上初の2,000本安打を達成します。後にイチローが日米通算出場でスピード記録を塗り替えましたが、日本プロ野球においては堂々の歴代1位です(2017年7月現在)。しかし長らく巨人不動の4番に座り「打撃の神様」と呼ばれていた川上にも、世代交代の波が押し寄せました。

1957年、9年ぶりに打率3割を逃し、進退をかけた1958年はスーパールーキー長嶋茂雄が入団します。シーズン後半から、長嶋に4番の座を奪われると、同年の打率は.246に終わりついに現役引退を決意しました。それでも歴代5位(2017年7月末現在)の通算打率.313を残しました。

巨人監督時代は徹底した管理野球を率先し、前人未踏の9連覇を達成

引退後即コーチに就任すると、1961年、水原茂から引き継いで巨人軍第6代監督に就任します。いきなり6年ぶりの日本一を達成し、翌年からは王貞治が一本足打法を完成させ、ホームランバッターとして覚醒しました。しかし、チーム状況は安定せず、隔年で成績を落としていました。それでも就任直後から進めてきた戦法が、後に花開きます。川上は、大リーグロサンゼルス・ドジャースの戦法を手本とし、牧野茂を参謀に据えて日本版スモールベースボールを完成させました。守備練習を重視し、犠牲フライや犠牲バントの徹底、そして徹底した管理野球を実践することで隙のないチームが完成します。

就任5年目の1965年、開幕前に金田正一を獲得してスタートすると、同年から前人未到の9連覇がスタートします。3番王、4番長嶋茂雄のクリーンナップが高いレベルで安定し、その脇を固める選手たちも一流選手へと成長しました。毎年のように有力選手も補強することで、選手間競争は途絶えることがありません。そうした緊張感は連覇を続けさせ、あまりの強さに「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語すら生まれました。

さらに短期決戦での強さは群を抜いており、日本シリーズではパ・リーグ優勝チームを常に蹴散らします。V9含めて、11度のリーグ優勝を決めたすべての年で日本一に輝くという勝負強さを見せました。主力選手たちが衰えた1974年、ついにリーグ優勝を逃し、川上も同年で監督を辞任します。そして同年引退した長嶋に監督の座を引き継ぎました。

打撃の神様、ドン川上など数々の異名を残して、93歳で永眠

監督退任後は、解説者や野球評論家として活躍します。しかし自身の発言は影響力が大きく、「ドン川上」とも呼ばれていました。一方で、少年野球の普及育成に大きく力を注ぐようになり、こうした活動が評価されて勲四等旭日小綬賞を授賞し、文化功労者として表彰されています。2013年、川上哲治は93歳にしてこの世を去りました。プロ野球の発展に大きく貢献し、ジャイアンツに金字塔を打ち立てた功績は果てしなく大きいものです。

選手として第1期、第2期黄金時代にかかわり、監督として第3期黄金時代を築き上げました。日本シリーズ連覇ですら難しい近代野球において、9連覇という偉業はアンタッチャブルレコードとして燦然と輝いています。


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