名前江本孟紀(エモトタケノリ)
生年月日1947年7月22日
日本
出身高知県香美郡土佐山田町
プロフィール高知商、法政大、熊谷組を経て、1971年東映(現・日本ハム)に入団、1972年南海に移り、野村監督のもとでエースピッチャーに成長(16勝)。1976年江夏とのトレードで阪神に移る。1979年まで連続8年10勝以上。1981年8月放言の責任をとって引退。

引退後に出版した「プロ野球を10倍楽しく見る方法」は200万部を超す大ベストセラーとなる。野球解説の傍ら、タレントとしても活躍、テレビドラマやミュージカル「くたばれ!ヤンキース」などに出演する。

1992年参院選にスポーツ平和党から当選したが、1995年離党し、12月自由連合(のち自由の会)に参加。1998年民主党に合流。その後も、無所属の会」「フロムファイブ」「民政党」「民主党」と政界を渡り歩いた。2004年に参議院議員を離職。2016年、四国独立リーグ・高知ファイティングドッグスの総監督に就任。他の著書に「プロ野球大反省・大予想」「生命エネルギーの秘密」。

通算成績は395試合、113勝126敗19S、防御率3.52、1,978回2/3、1,130奪三振。法政大学卒、右投右打、188cm、77kg

甲子園出場辞退という悔しい思いをするも、法政大学時代は優勝を経験

江本孟紀は高知県に生まれ、小中学生時代は父の転勤で何度も転校しながらも野球を続けました。高知商業時代は、エースに4番とチームの中心に上り詰めます。2年夏は自身の4連続死球が原因で甲子園出場を逃しました。しかし、同年秋には3番浜村孝含めてメンバーに恵まれて、四国大会を制覇して翌年春のセンバツ出場を決めます。圧倒的強さは全国にも知れ渡り優勝候補にも挙げられました。しかし3月に野球部員の暴力事件が発覚し、悔しい出場辞退に1年間の対外試合禁止という重い処分を下されます。その瞬間最後の夏のチャンスを消えて高校生活を終えました。

高卒で、西鉄ライオンズからドラフト4位指名を受けるも、同僚よりも順位が低いことに納得がいかず法政大学へ進学します。同期に大エース山中正竹がいたため2番手投手として過ごしましたが、3年時は自身が登板した試合で優勝が決まり、1学年上だった田淵幸一捕手とマウンド上で抱き合いました。しかし、江本は入学当初から松永玲一監督の方針に合わず、最終学年は退部状態となり、大学通算では14試合登板の6勝1敗に終わります。卒業後は熊谷組に入社して実業団野球に進み、チームの都市対抗野球大会進出にも貢献しました。

南海ホークスへ移籍すると、エース格として4年連続二桁勝利を記録

1971年、ドラフト外で東映フライヤーズへ入団し、24歳にしてプロ野球選手となりました。高校時代からずっと速球派でしたが、プロ入りと同時に技巧派への転身をはかります。ルーキーイヤーは、主に中継ぎとして26試合に登板するも、0勝4敗、防御率5.04と不本意な成績に終わりました。

同年オフ、2年目にもかかわらずトレードで南海ホークスへ移籍します。しかも、当時の野村克也選手兼任監督に才能を見出されての指名であり、その証としてプロ0勝だった江本孟紀には、主力投手が背負う背番号16を与えられました。大きな期待を自信に変えると、プロ初勝利を含む16勝と、いきなりチーム勝ち頭へとのし上がります。野村監督の「シンキング・ベースボール」にも深く共感し、その後もチームに不可欠な戦力となりました。

2年目には12勝14敗と負け越しこそしたものの、前期優勝に貢献したばかりか、プレーオフの勝負どころではリリースエースに代わって最後を締めて胴上げ投手も経験します。結局4年連続で二桁勝利をマークし、うち3シーズンはチーム勝ち頭でもありました。

江夏豊らとのトレードで移籍した阪神時代も、変わらず実力を披露

江本孟紀は、歯に衣着せぬ発言が特徴の一つの選手でした。しかし、チームのための発言が恩師批判につながり、1975年オフに再びトレードでホークスを放出されることになります。阪神から江夏豊含む2選手と、江本含めて4選手が交換でチームを変わりました。

セ・リーグの注目球団に来たことで、甘いマスクの江本は人気を集めます。もちろん実力も変わらず披露し、いきなりチームトップの15勝とエース名乗りを上げました。さらにホークス時代から続ける二桁勝利を8年連続に伸ばすなど安定して成績を残します。1978年からは先発だけではなく、リリーフとしても頻繁にマウンドに上がっていました。

監督との衝突が大問題となり、34歳で突然の退団劇へと発展

江本孟紀が阪神に加入した1976年はリーグ2位と優勝を争いました。しかし、翌年以降、4位、6位と順位を下げると、毎年のように監督が代わる不安定な時期となります。そして1980年シーズン途中に着任した中西太監督と大きくぶつかってしまいました。1981年シーズンは、開幕直前まで自分が先発なのかリリーフなのか確定しません。ようやくリリーフ中心と決まりましたが、緊張の糸は切れていました。そしてシーズン中に、先発の頭数が足らず、先発指令が下った8月、事件が起こります。

ヤクルト戦で先発すると8回まで投げていましたが、4-2と追い上げられさらに2死二三塁と一打同点のピンチを迎えました。打席に入ったのが8番打者だけに、勝負か敬遠かベンチに意見を求めます。しかし、監督は指示を出さないままベンチに消え、中途半端な気持ちでボールを投げると同点打を浴びました。

すると即交代を命じられたため、感情が爆発しグラブを投げつけベンチでの暴言につながります。そのシーンはスポーツ新聞一面に写真として掲載され、監督批判として大問題となりました。球団の処分は10日間の謹慎でしたが、江本はそのまま同年限りでの引退を表明します。当時34歳で113勝を積み上げていましたが、一瞬でプロ野球人生にピリオドを打ちました。

引退後はタレント、政界進出、野球の底上げなど幅広い活動

突如として職を失った江本孟紀は、その後様々な方面で活躍します。引退翌年に発売した著書「プロ野球を10倍楽しく見る方法」は200万部を超えるベストセラーとなりました。さらに、コメント力のある発言は世間に受け入れられて、解説者やコメンテーターとしても頻繁にテレビ出演を重ねます。

また1992年からは政界へ進出します。参議院議員初当選すると、スポーツ平和党から自由連合、無所属の会、フロムファイブ、民政党、民主党と渡り歩きました。2004年には参議院儀議員を離職し、大阪府知事選に立候補しましたが太田房江氏に敗れました。

もちろん野球への尽力もしており、アメリカ独立リーグ初の日本人チーム「サムライベアーズ」にも力を貸し、クラブチーム「京都ファイアーバーズ」も立ち上げて監督兼主催者となりました。タイのナショナルベースボールチームの総監督として北京五輪アジア予選にも出場しました。2016年からは、地元の高知を本拠地とする四国独立リーグ「高知ファイティングドッグス」の球団総監督に就任しプロ野球入りを目指す後進の育成支援をしています。


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