名前吉井理人(ヨシイマサト)
生年月日1965年4月20日
日本
出身和歌山県有田郡吉備町
プロフィール1984年ドラフト2位で近鉄に入団。1987年リリーフ投手として1軍入りし、10月に初完投勝利を飾る。1988年は開幕からリリーフエースとして活躍、同年最優秀救援投手に。1995年ヤクルトに移籍。

1997年FA宣言。1998年1月米国・大リーグのメッツに入団。同年4月対パイレーツ戦に初登板し初勝利。1999年には2ケタ勝利を挙げる。2000年1月2選手との交換トレードによりロッキーズに移籍。2001年4月エクスポズに移籍。

2003年からはオリックスで日本球界復帰し、同年は開幕投手を務める。2004年一度は戦力外通告を受けるも、新生オリックス・バファローズ仰木彬の元で再び始動。2007年途中にロッテに移籍し同年現役引退。

2008年から2012年まで日本ハムコーチに就任して2度のリーグ優勝に貢献。2014年、筑波大学大学院で修士課程。2015年福岡ソフトバンクホークスコーチ、2016年日本ハムコーチに就任。

NPB時代の通算成績は385試合、89勝82敗62S、防御率3.86、1,330回0/3、763奪三振。最優秀救援投手1回。

MLB時代の通算成績は162試合、32勝47敗1ホールド、防御率4.62、757回1/3、447奪三振。箕島高卒、185センチ、88キロ。右投右打

箕島高校で2度甲子園に出場し、近鉄バファローズ2位指名で入団

吉井理人は、和歌山県に生まれ、西武ライオンズの大投手・東尾修と小中高と全く同じ学校に通います。しかし、野球一本というわけではなく、中学までは野球のボーイズリーグに所属しながら、陸上や柔道などもあわせてやっていました。円盤投げでは和歌山県1位、近畿大会2位という実績を残しましたが、箕島高校進学とともに野球に専念します。

1982年、2年春には控え投手として甲子園初出場し、ベスト4をかけてPL学園戦でリリーフ登板しましたが、惜しくも0-1で敗れました。3年夏にはエースとして、2度目の甲子園出場を果たします。1回戦では延長13回を完投勝利、2回戦も完投して3回戦進出しましたが、津野浩率いる高知商に大差で敗れて、甲子園を去りました。プロ入りには積極的ではありませんでしたが、近鉄バファローズからドラフト2位指名という高評価を受け、入団しました。

突如クローザーに抜擢されてリーグ優勝するも、日本一を逃す

当時の近鉄は岡本伊三美監督が率いており、吉井理人は入団3年間でわずか4試合とほとんどを二軍で過ごします。一方、同期のドラフト1位・小野和義は初年度から多くの登板機会を与えられ、3年目には先発の柱として二桁勝利をマークしていました。4年目に何とかプロ初勝利を含む2勝を上げましたが、一軍登板は13試合でした。しかし、1988年、岡本監督に代わって仰木彬監督が就任すると、大きなチャンスが訪れます。実績のなかった吉井は一転してチームのクローザーに抜擢され、チーム最多の50試合に登板し10勝24セーブをマークしました。最優秀救援投手のタイトルを奪いましたが、同年は、「10.19」川崎決戦でも知られる最終戦で優勝を逃すという悔しい思いをします。

しかし、翌年も5勝20セーブと引き続き活躍し、当時黄金時代だった西武ライオンズを下して優勝を成し遂げました。巨人との日本シリーズでも、第2戦、3戦に登板してチームは3連勝と、球団初の日本一にあと1勝へと迫ります。しかし、第4戦を落とし、第5戦には吉井が絶不調だった原辰徳に満塁弾を浴びて、シリーズの流れが一変します。第7戦にも本塁打を打たれ、近鉄は3連勝からの4連敗で日本一を逃しました。

1990年以降クローザーとして不安定な成績が続き、1993年からは先発投手に転向します。しかし2年間で合計12勝に終わり、当時の鈴木啓示監督との確執もあってヤクルトスワローズへトレード移籍となりました。

ヤクルトでは先発として3年連続二桁勝利し、2度の日本一に貢献

30歳で新天地を迎えましたが、野村克也監督との出会いが大きな転機となりました。名将の野球論に感銘を受けて野球の質が変わると、吉井理人は先発の一角として大活躍します。1995年すでに黄金時代に突入していたチームにも支えられ、先発としては初の二桁10勝をマークし、近鉄時代は経験できなかった日本一に輝きました。翌年のチームは一転して、Bクラス4位に転落するも、吉井は防御率リーグ3位に10勝と先発陣を支えます。移籍3年目の1997年は、チーム最多先発登板してキャリアハイの13勝をマークして、2年ぶりの日本一に貢献しました。1995年から3年連続で二桁勝利をマークしたのはチーム唯一でもありました。

高額年俸を捨ててメジャーへ挑戦し、5年間で3球団を渡り歩く

1997年オフに海外FA権を行使すると、日米球団で争奪戦が繰りひろげられました。巨人はヤクルトの条件をはるかに上回る金額を提示していましたが、吉井理人が選んだのはメジャーリーグでした。メディカルチェックで問題が見つかり、年俸はヤクルト提示の1/3以下でしたが夢を選択します。そしてFA権を行使して初めてメジャー移籍した日本人となりました。

ロッテでも指揮を執ったボビー・バレンタイン監督率いるニューヨーク・メッツと契約し、初先発初勝利を収めるなど順調なスタートを切ります。後半は調子を落とし6勝8敗に終わりましたが2年目に大きく輝きました。勝負がかかった終盤に好調を維持し、先発にリリーフにフル回転します。そしてチームをプレーオフに導く12勝を上げ、ポストシーズン開幕投手も務めました。

メジャー3年目は、ロッキーズへ移籍し6勝15敗と大きく負け越しましたが、ローテーション投手を全うしました。続くエクスポズ在籍時は2年トータルで8勝16敗とメッツ時代と比べ好成績を残せず2002年解雇されます。しかし、メジャーで5年間、3球団を渡り歩き、確かにアメリカンドリームを手にしました。

恩師・仰木彬の元で再プレーするなど、42歳まで現役生活を全う

2002年オフ、すでに37歳とベテランとなっていた吉井理人は、オリックスブルーウェーブへのテスト入団を果たします。さらに経験を買われて、いきなり開幕投手も務めました。しかし好調の時期は少なく、同年は2勝7敗、2年目はわずか3試合の登板で0勝に終わり戦力外通告を受けます。

年オフ、プロ野球再編問題が勃発し、古巣近鉄がオリックスと合併してオリックス・バファローズとして生まれかわりました。そして監督に仰木彬が就任すると、再び吉井に声がかけられ復帰します。すると同年は6勝、2006年は7勝とベテランの意地を見せました。しかし2007年、シーズン途中でロッテへ移籍すると年齢には勝てず同年限りでの引退を表明しました。

指導者に転身し、コーチングのスキルを得ると優勝請負コーチとなる

42歳までプレーし、日米7球団で通算121勝129敗62Sという実績は大きく買われ、即指導者の道が開けました。2008年からは5年間、日本ハムの投手コーチを務め、2度のリーグ優勝に貢献します。2014年は、あらためてコーチングの勉強のため筑波大学大学院へ通い体育学の修士を取り、2015年福岡ソフトバンクホークスのコーチに就任すると、いきなり日本一、2016年再び日本ハムコーチへ復帰するとここでも日本一と、優勝請負人コーチとして活躍しています。

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