アントニオ猪木について

名前アントニオ猪木
生年月日1943年2月20日
日本
出身神奈川県横浜市
プロフィール14歳の時、一家揃ってブラジルに移住。16歳の時、全ブラジル陸上選手権でジュニアの円盤投げと砲丸投げで優勝。

60年力道山にスカウトされ帰国してプロレスラーの道を歩む。66年東京プロレスを旗上げしたが、崩壊。その後、日本プロレスに復帰したが、72年3月再び独立し新日本プロレスを興す。柔道王ルスカ、ボクシング王者M.アリとの異種格闘技戦を行い、卍固め、延髄斬りを武器に“世界の猪木”の地位を築いた。タイトルはインタタッグ、アジアタッグ、北米タッグ、NWFヘビー級と輝かしい経歴を持つ。

一方、89年スポーツ平和党を結成し、参院選に立候補し当選、民社党と統一会派“民社・スポーツ・国民連合”を結成。91年東京都知事選に出馬を表明するが断念。93年元公設秘書から公選法違反や脱税などで東京地検に告発され、党首を辞任。95年落選。98年4月プロレスラーを引退。

同年新団体・UFO(ユニバーサル・ファイティングアーツ・オーガナイゼーション)を旗揚げ、会長となる。同年米国永住権を取得。

12年初の詩集「猪木詩集 馬鹿になれ」を刊行。

ブラジル生活中に力道山のスカウトを受ける

後に「燃える闘魂」と称された伝説のレスラー、アントニオ猪木は神奈川県横浜市に生まれました。家業として石炭問屋を営んでいましたが、猪木が中学生になるころには生活が貧困に、そのため一家はブラジルへと移住しました。

ブラジル移住後、過酷な生活を強いられる中で猪木の運動神経はメキメキと開花し、砲丸投げで優勝するなどの実力を示していました。そして猪木が17歳になった60年、ブラジルに興行でブラジルを訪れていた力道山の目に留まり、猪木のプロレスラーとしてのデビューが決まりました。

デビューから間もなく力道山の付き人となった猪木ですが、同門のジャイアント馬場と比べると扱いは雲泥の差でした。元プロ野球選手、それも巨人の投手だった馬場はスター候補でしたが、猪木は格下扱いでした。そのため、力道山の付き人としても厳しい指導が多くありました。

そんな中で入門から2年がたった62年、猪木はリングネームを「アントニオ猪木」に改名しました。その翌年に力道山がこの世を去ってしまいます。猪木は64年からアメリカ武者修行に出発し、西海岸、中西部、南部とサーキットして2年後に帰国、猪木の実力はデビュー当時とは大きく異なり、力強さを増していました。

しかし、それでも日本プロレスでは馬場の方が人気を博していました。「いつまでも勝てない」と悟った猪木は66年に東京プロレスを旗揚げします。ところがテレビ放送が付かなかったことなどが理由で東京プロレスはわずか3ヵ月で破産、その後猪木は古巣の日本プロレスに復帰することになりました。

日本プロレスに復帰、BI砲で人気を博す

紆余曲折ありながらも日本プロレスに戻ったアントニオ猪木。レスラーとしての実力はトップクラスだったこともあり、ジャイアント馬場とのタッグを組むようになりました。この二人のタッグはのちに「BI砲」と呼ばれるほどの威力を発揮し、インターナショナル・タッグなどの王座を獲得しました。

また、猪木はタッグ戦ではなく個人でも強さを見せ、この頃にUNヘビー級王座を獲得するなど活躍を見せました。まもなくドリー・ファンク・ジュニアが所有していたNWA世界ヘビー級王座に挑戦するなど、シングル戦でも猪木は実力を発揮するようになります。

しかし、猪木は強くなればなるほど馬場との確執が目立つようになり、同門同士での対戦を要求しますがそれを受け入れられず、さらに日本プロレスの経理が不明瞭という理由で揉め、71年に猪木は日本プロレスから追放処分を受けるという憂き目に遭ってしまいました。

異種格闘技戦でプロレス最強を唱える

日本プロレスから追放されたアントニオ猪木は72年、新日本プロレスと旗揚げします。この団体も当時はテレビ中継がなかっただけに経営は苦しく、さらにジャイアント馬場率いる全日本プロレスの影もあり、大物外国人レスラーの誘致もできないという二重苦三重苦といった状態でした。

猪木は日本プロレス時代の先輩との試合や無名の外国人レスラーの育成に努め、タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンらを輩出しました。これで人気が上がった新日本プロレスの経営は安定するようになっていきました。

この頃から猪木は「プロレスこそ最強」というストロングスタイルを標榜するようになり、異種格闘技戦を優先して行うようになります。その中で最も有名なのが76年に行われたモハメド・アリとの異種格闘技戦でした。世界ヘビー級チャンピオンのボクサーとプロレスラーとの真っ向勝負ということで大きな話題になりました。

また、猪木は83年には世界統一タイトルを目指してIWGPを立ち上げますが、このあたりから経営的にうまくいかなくなり、新日本プロレスの所属レスラーたちの退団騒動につながっていきました。そして88年のIWGP戦に出場した猪木は「負けたら引退」を公言して大きな話題を呼びましたが、結果はまさかの引き分けに終わってしまいます。

カウントダウンシリーズで花道を飾る

88年当時でアントニオ猪木はすでに45歳を迎えていました。レスラーとしてはかなりの高齢となり、引退がささやかれるようになっていきました。90年の東京ドーム大会ではアナウンサーのインタビューに対して猪木は「出る前に負けること考えるバカがいるかよ!」と一蹴して見事に勝利を収めます。この時に有名な「1、2、3、ダァーッ!」のパフォーマンスが行われました。

さらにこの頃から猪木は政界にも進出します。史上初のレスラー出身の国会議員となりましたが、プロレスとの二足のわらじは年々多忙を極めるようになります。

そうして94年、猪木はグレート・ムタとの試合で勝利を収めますが、この試合から「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」という興行を始め、96年にはキンシャサの奇跡で知られるボクサー、ジョージ・フォアマンとの対戦で判定勝ちを収めます。

そして、98年、猪木は4月に行われたファイナルイノキトーナメントで小川直也らと対戦して勝ち上がってきたドン・フライと対戦し、グラウンド・コブラツイストを繰り出して勝利を収めて引退を表明しました。その後のセレモニーでは「道」の詩を詠むという伝説のスピーチを行い、ファンに惜しまれつつ現役を去りました。

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