武田幸三について

名前武田幸三
生年月日1972年12月27日
日本
出身東京都足立区
プロフィール高校時代はラグビーで活躍し、大学で格闘技と出会う。大学を中退し、93年治政館に入門。94年新空手の全日本選手権で優勝。

95年ムエタイ選手としてプロデビュー。日本を代表するキックボクサーとしてタイ人の有力選手を次々と下すが、00年5月ラジャダムナン・スタジアム認定のムエタイ、ウェルター級タイトルマッチで、王者チャラームダム・シットラットラガーン(タイ)と引き分け、タイトル奪取はならなかった。

01年1月同タイトルを獲得。通算成績は31戦25勝(20KO)4敗2分。現在、新日本ウェルター級王者。武器はパンチとローキック。173センチ、70キロ。

シカティックに憧れて、ラガーマンから格闘家へ

ムエタイ→キックボクシングと日本の格闘界でもあまり知られていない2大競技をベースに活躍した武田幸三。しかし、学生時代は格闘技の経験はありませんでした。当時の武田はラグビー部に所属するラガーマンでした。国士舘大学へ進学した際もラグビー推薦によるものでした。

武田が格闘技に目覚めたのはこの大学時代の時でした。当時始まったばかりのK-1の試合がキッカケでした。中でも武田を夢中にさせたのはブランコ・シカティック。「伝説の拳」と称された強力なパンチを武器に初代K-1グランプリチャンピオンに輝いた伝説の格闘家です。

シカティックに憧れた武田は間もなく、大学を中退します。自身の経験を生かせるキックボクシングを起点に格闘家への転身を図ります。そうして93年、武田は治政館へ入門しました。当時はK-1とその他のキックボクシング団体の違いも判らなかった武田ですが、すぐにその力を発揮し、入門から1年後の94年には新空手の全日本選手権で優勝する目覚ましい活躍を見せました。

ムエタイ史上4人目の外国人王者に

キックボクシングの世界へと転身を図る武田幸三ですが、その機会が訪れたのは95年のことでした。ムエタイ選手として武田はプロデビューを果たします。当時の日本であまり普及していなかったムエタイですが、武田はムエタイの本場であるタイの選手たちを相手に好戦を続けていきました。その原動力となったのは武田の代名詞となったローキックです。

ラグビー経験者である武田はキック力に関して自信を持っていたのは事実ですが、その威力は本格的に格闘技をしていた経験者ですら顔負けのレベルでした。その威力は格闘家仲間からも「最も効くローキック」「鉄の角材で殴られているかのよう」とさえ評されるほどのものでした。それだけ強い威力を誇るローキックを決められると、たいていの選手は立っていられなくなります。その威力抜群のローキックと、破壊力のある右ストレートを武器にした武田はとうとうタイでも知られる存在になりました。

そして01年、武田はチャラームダム・シットラットラガーンに2ラウンド2:12KO勝ちを飾り、ラジャダムナン・スタジアムウェルター級王座を獲得しました。これはムエタイ史上4人目となる外国人王者の誕生となりました。

ムエタイで王者に輝いた武田ですが、その栄華は長く続きませんでした。この年の9月に防衛戦に臨んだ武田ですが、チャーンヴィット・ギャットトーボーウボンにTKO負けを喫し、王座防衛に失敗してしまいました。

再び挑む立場になった武田ですが、同時にこの頃から武田は当初の目標であるK-1戦線に出場することを目指し始めます。そして、03年の3月に念願のK-1デビューを果たします。K-1 WORLD MAX 2003 ~日本代表決定トーナメント~に出場します。この当時はほぼ無名の存在ながら連戦連勝で決勝に進出しました。決勝では魔裟斗を相手に判定負けとなりましたが、それでもいきなり準優勝を飾ります。その威力抜群のローキックと右ストレートは格闘技ファンに鮮烈な印象を与えました。

ルールに泣かされ、思うような成果を挙げられず

晴れてK-1ファイターの仲間入りを果たした武田幸三ですが、その後はK-1とキックボクシングの活動を両立するようになりました。その中で迎えた04年7月の新日本キックボクシング協会「MAGNUM 5」でペットナークン・ソーサムルアイナムチョークと対戦しました。

この試合の2ラウンド途中で武田が突然の出血をしてしまいます。偶然のバッティングとの判断で、2ラウンド終了時点で判定が行われ1-0の引き分けとなりましたが、ビデオ判定の結果、ソーサムルアイナムチョークが反則である肘打ちを放ってしまいます。これで武田の反則勝ちへと変更されましたが、いわくつきの勝利に武田はぶぜんとした表情をしたままでした。そして、この試合以降はさえない成績が続きました。

05年2月、武田はK-1 WORLD MAX 2005 ~日本代表決定トーナメント~に出場を果たします。武田の1回戦の相手は山本“KID”徳郁でしたが、山本の右腕負傷により実現せず。代わりに前日に緊急参戦が決定した宮田和幸と対戦します。この時の武田は伝家の宝刀である右ローキックでKO勝ちを収めますが、右脛を負傷したことで準決勝を棄権することになりました。この頃から武田はルールに対応できずに思うように試合を運べない時期が続きます。

05年10月、武田は新日本キックボクシング協会「小野寺力引退記念大会 NO KICK, NO LIFE ~FINAL~」で佐藤ルミナとスペシャルエキシビションマッチで対戦します。この試合、当初はキックボクシングルールでしたが、途中からオープンフィンガーグローブを着け、総合格闘技ルールに変更されました。突然のルール変更にも屈することなく、武田は腕ひしぎ十字固め、スリーパーホールド、パウンドなどを繰り出し、ファンを熱狂させます。

さらに08年の大みそかに行われた、Dynamite!! ~勇気のチカラ2008~でK-1ルール初挑戦となる川尻達也と対戦をしました。この時の武田は右フック、右跳び膝蹴り、左フックを浴び、1ラウンドで3度のダウンを奪われ無念のTKO負け。改めて総合格闘技では今一つの成績を残すことになりました。

現役引退後、俳優業へ転身

デビューから10年以上が経過した09年。武田幸三は体力面での限界を感じ、引退を決意します。そうして迎えた10月のK-1 WORLD MAX 2009 World Championship Tournament FINALで組まれた引退試合でアルバート・クラウスと対戦することに。この試合で武田は2ラウンド目で、右目を負傷したことでTKO負けを喫します。残念ながら有終の美を飾ることはできませんでした。

翌10年5月、新日本キックボクシング協会はこれまでの武田の栄誉を称え、「FINAL 武田幸三引退記念興行」が開催されました。武田はメインイベントで佐藤嘉洋と対戦し、格闘技ファンたちへの最後の雄姿を見せました。

現役引退後も武田の鍛え抜かれた肉体は健在です。現役時代に「超合筋」と呼ばれた鋼鉄のボディーは俳優業を務める上でも重要で、16年には大河ドラマ「真田丸」に大野治房役で出演するなど、活躍のステージを広げていきました。


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