名前 | 小山ちれ(コヤマチレ)中国名=何/智麗(ホー/ズーリー) |
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生年月日 | 1964年9月30日 |
国 | 中国 |
出身 | 上海 |
プロフィール | 4歳のとき親戚に手ほどきを受けて卓球を始める。
17歳で中国ナショナルチームのメンバーとなり、1987年の世界選手権女子シングルスで初優勝。1984年、1986年、1988年のアジア選手権で3連覇。1985年夏、大阪・池田市などで開かれた日中友好卓球大会で中国選手の世話役をつとめた池田市職員と知り合い、1989年10月結婚。1991年2月大阪・池田銀行に入行、卓球部が結成され、本格的に活動を再開。 1992年10月帰化。1994年チェコ国際オープン優勝。同年10月広島アジア大会で金メダル。1995年9月世界ランク9位となり、初の五輪出場資格を得る。同年アトランタ五輪ではシングルス、ダブルスともに5位。1997年12月全日本選手権シングルス6連覇を達成。同年アジア選手権優勝。1998年アジア選手権シングルス3位。同年12月全日本選手権は決勝で坂田愛に敗れ、7連覇はならなかった。 1999年12月全日本選手権を制し、7度目の優勝を飾る。2000年シドニー五輪シングルス5位。同年国際大会からの引退を表明。2001年1月ジャパントップ12優勝。池田銀行監督兼選手。関西スポーツ賞、上海体育運動技術学院卒168センチ、58キロ |
八百長試合を拒否し、世界ランキング1位でもソウル五輪出られず
小山ちれ(中国名:何智麗)は、1964年、中国・上海にて生を受けました。卓球王国中国において、幼い頃から卓球を始め、17歳で中国代表に名を連ねます。アジア卓球選手権で中国代表のエースとして、1984年、1986年と連覇を飾りました。パワフルな攻撃スタイルで、1987年の世界卓球選手権ニューデリー大会でも見事に優勝を飾りましたが、この勝利が物議をかもし、自身の卓球人生を大きく揺るがすことになります。
準決勝で同じ中国の管建華選手と対戦する前に、当時絶対的だった上層部から管建華に勝たせるようにと、まさかの敗戦指令を受けていました。しかし、それを無視して決勝まで勝ち上がり、見事優勝を飾ります。世界ランキングも1位となり、翌年開催されるソウル五輪にも当然中国代表のエースとして出場するものと思われました。ところが、先の世界選手権での指令無視が影響したのか、選考会において中国代表から漏れてしまいます。1988年アジア卓球選手権で女子シングルス3連覇を飾りましたが、ソウル五輪に出場することができず、同年現役を引退するという事態となりました。
日本で選手として復帰すると、中国相手に意地を見せる
中国No.1の実力を持ちながら、最高の舞台でのプレーできませんでしたが、日本で選手として復帰します。1985年当時に、日中友好卓球大会で来日した際、中国選手側世話役だった小山英之と知り合っており、1989年に結婚しました。そして、1991年夫と同じ池田銀行に入行すると同時に卓球部が創設されます。1992年には日本に帰化し、小山ちれとして戦う環境が整いました。
ブランクがあったにも関わらず、かつての世界ランキング1位はさすがの実力を披露します。1992年、初めて出場した全日本卓球選手権大会で挨拶代わりの初優勝を決めると、同年から実に6連覇を達成しました。また1994年、広島で開催されたアジア競技大会では、中国選手相手に意地を見せます。6連覇を狙う中国は、当時の世界ランキング1位で、バルセロナ五輪金メダリストの鄧亞萍が出場していました。しかし小山が決勝で鄧亞萍を破り、中国卓球界を大いに驚かせます。相当なブーイングも起きましたが、小山の実力を証明した結果でした。
日本代表として自身初めて五輪出場し、単複ともに5位
1995年、久しぶりに世界ランキングが一桁の9位となり、諦めていた五輪出場が現実化します。そしてアトランタ五輪出場が確定し、日本のエースとして挑むことになりました。32歳と選手としてはかなりのベテランの域に達していましたがシングルス、ダブルス両方に出場し、予選はともに3戦全勝で決勝トーナメントに進出します。しかし決勝では、準々決勝で中国選手に破れ5位とメダルには届きませんでした。
それでも1996年は、かつて3連覇を飾ったアジア卓球選手権で、4度目の優勝を飾るなど、中国チームの連覇を10でストップさせます。同大会における金メダルは、2017年に平野美宇が中国3選手を破って優勝するまで、出ませんでした。
シドニー五輪では、金メダリストに破れ2大会連続5位
その後も活躍は続き、1998年に全日本卓球選手権大会7連覇を逃しましたが、1999年から再び連覇と優勝回数は8回を数えました(2016年末時点で、女子最多優勝回数)。1999年には、日本リーグ前期で池田銀行を初優勝にも導きます。そして、2000年には、天才少女といわれていた福原愛との初対戦も実現しました。わずか4歳で全国大会デビューし、同じ辰年生まれの12歳(当時)は、36歳の小山ちれから第1セットを先取します。まさかの失セットで女王の闘志に火がつき、その後は圧倒しましたが、幼い心に確かに刻み付けました。
そして同年、シドニー五輪にも出場します。年齢的にも集大成と位置づけ、前回大会と同じく日本のエースとして舞台に立ちました。前回以上の成績をあげるためには、準々決勝の壁を打ち破らねばなりません。しかし、立ちふさがったのは世界ランキング1位の王楠(中国)でした。第1セットから19-21、8-21、20-22と王者を苦しめるも0-3で破れ、前回同様5位となります。この後、勝ち進んだ王楠は、シングルス、ダブルスをともに制しました。
41歳まで現役選手としてプレーし、チーム消滅とともに引退
1997年に、夫・小山英之と離婚調停を申し立て、2000年に離婚が成立しました。しかし,その後も、池田銀行の一員としてプレーし続けます。国際大会からは身を引きましたが、2006年に卓球部が廃部となるまで、選手そしてチームの監督として日本リーグを戦いぬきました。4歳から卓球を始め、27歳の年で、日本人・小山ちれに名前を変え、41歳という大ベテランでラケットを置きました。全盛期に五輪出場していれば、金メダルを手にしていたかもしれません。