名前西野朗(ニシノアキラ)
生年月日1955年4月7日
日本
出身埼玉県浦和市
プロフィール主にMFとして活躍し、浦和西高時代全国高校選手権でベスト8を経験。

早稲田大学教育学部に進学し、1年の時日本代表入り。卒業後日本リーグの日立で活躍、釜本邦茂と並ぶ8試合連続得点のリーグ記録を打ち立てた。

1990年現役引退後コーチに。のち日本ユース代表監督を経て、1993年アトランタ五輪日本代表の監督に就任。1996年同大会予選では、対ブラジル戦で歴史的勝利を挙げるなど2勝するが決勝トーナメント進出はならなかった。

1997年2月柏レイソルヘッドコーチとなり、1998年監督に昇格。1999年11月ヤマザキナビスコカップに優勝し、初タイトルを獲得。2000年Jリーグ第1ステージ4位、第2ステージ2位に終わるが年間総合勝ち点、勝率ともに首位となり、最優秀監督賞を受賞。2001年7月解任。

2002年シーズンからガンバ大阪監督に就任。いきなりクラブ史上最高位のリーグ戦3位に押し上げると、2005年に春のリーグ優勝、2007年はナビスコ杯、ゼロックス杯初優勝、2008年、天皇杯、AFCチャンピオンズリーグ初制覇、2008年天皇杯連覇とガンバの黄金時代を築き上げます。2011年まで10シーズン監督を歴任し、同年退任。

2012年シーズン途中にヴィッセル神戸監督に就任も半年後解任。2004年から2シーズン、名古屋グランパスエイト監督に就任するも結果を残せず2015年退任。

2016年、日本サッカー協会(JFA)の理事に就任し、技術委員長を務める。ベストイレブン1回(1985年)、Jリーグ最優秀監督賞2回。国際Aマッチ 12試合 1得点。早稲田大学教育学部卒。

若くして日本代表に選出されるも、日立製作所時代は輝きを放てず

西野朗は、埼玉県浦和市に生まれ、高校卒業までを地元で過ごします。また西野が生まれる前から、「埼玉を制する者は天下を制す」と言われるなどサッカーが盛んな地であり、浦和高校、浦和西、浦和市立がしのぎを削っていました。そして、自身も、浦和西高校へ進学し、全国高等学校サッカー選手権出場を目指します。MFとして頭角を現し、3年生となった1973年、ついに16年ぶり5度目の出場を果たしました。2回戦で大分工に2-0と快勝して、全国ベスト8に名乗りを上げます。しかし。準々決勝で相模工大付属に0-1で敗れ、1956年以来の全国優勝は泡と消えました。

卒業後、早稲田大学へ進学すると、1年時に日本代表に初選出されます。当時の日本はワールドカップに出場できるような強さを持ち合わせておらず、アジア予選で姿を消すことが常でした。1977年アルゼンチンワールドカップアジア予選でも、敗退が決まっていましたが、大学3年生の西野は日本代表として韓国戦のピッチに立ちます。大方の予想を覆して、強豪韓国と引き分けましたが、主役となったのはエース釜本邦茂でも、奥寺康彦でもなく西野でした。中盤から得意のドリブルで、韓国守備陣を抜いていく様は、新スター誕生を予感させます。

早稲田卒業後、日立製作所へ加入しましたが、なぜかそのプレーは色褪せて代表からも遠ざかっていきました。30歳となった1985年シーズンに突如、復活して釜本の記録に肩を並べる8試合連続ゴールを樹立しましたが、再び低迷が続き、1990年現役を引退しました。

ドーハの悲劇を裏方で経験し、その教訓をマイアミの奇跡に生かす

1991年からU-20日本代表監督に就任し、指導者生活をスタートさせます。1992年からは、日本A代表チームのコーチスタッフとして、1994年W杯を目指しました。スカウティング担当として、対戦チームの偵察、分析という重要な役割を与えられます。しかし、ドーハの悲劇で知られる最終イラク戦に引き分けたことで、日本初のW杯出場は叶いませんでした。

その後1994年からは、アトランタ五輪出場を目指すU-23日本代表監督に就任します。9日間で4試合という厳しい予選を勝ち抜き、実に28年ぶりの本大会出場を決めました。そして抽選の結果、本戦初戦で王者ブラジルと対戦することが決定します。そこから徹底的な情報分析を行い、守備面で万全の対策を施しました。試合は予想通り圧倒的にブラジルが攻めましたが、GK川口能活を中心に必死に守り前半を0-0で終えます。ドーハの悲劇では、リードして向かえたハーフタイムで、選手たちが興奮しすぎていたため、それを教訓とし、選手たちのリフレッシュに集中させました。そして後半、偵察で見つけていた弱点を突いて虎の子の1点をあげると、そのまま逃げ切り歴史的な勝利を収めます。マイアミの奇跡と大きく注目を浴びましたが、予選リーグ突破を逃しました。

柏レイソル監督として、自身初のJリーグ最優秀監督に選出

その後の西野朗は、指導者として次々と結果を残していきます。1997年に柏レイソルヘッドコーチ、1998年に監督に昇格すると、就任2年目にクラブとして初タイトルとなるナビスコカップ優勝を飾ります。3年目には、2ndステージで過去最高の2位(年間勝ち点は1位)にチームを押し上げて、Jリーグ最優秀監督に選出されました。

ガンバ大阪で初めてJリーグを制し、黄金時代を築き上げる

2002年からは、Jリーグ創世記以降、低迷が続いていたガンバ大阪の監督に就任します。Jリーグ創設当時から存続しているチームでしたが、ずっとタイトルとは無縁でした。しかし、就任1年目でいきなり過去最高位の3位を確保すると、3年目も同じく3位と上位で戦えるようになります。そして就任4年目の2005年シーズン、悲願のリーグ戦初優勝を飾りました。ナビスコカップでも準優勝させるなど一気にチームを引き上げ、自身2度目のJリーグ最優秀監督賞を受賞します。

2006年、2007年もリーグ戦で連続3位と安定した戦いを続け、2007年はゼロックス杯、ナビスコカップでそれぞれ初優勝、2008年には天皇杯、AFCチャンピオンズリーグも初優勝と毎年のようにタイトルを奪います。2009年も天皇杯連覇、2010年からは2シーズン、無冠に終わりましたがリーグ戦では3位、2位とガンバ大阪の黄金時代を築きました。結局、2011年まで10シーズン監督を務め、Jリーグ監督在位最長期間記録を更新します。そしてその10年で、攻撃的サッカーというガンバのスタイルを確立して任期を終えました。

神戸、名古屋と渡り歩き、歴代1位のJリーグ監督通算270勝

その後、2012年シーズン途中にヴィッセル神戸の監督に就任しましたが、半年間ではチーム成績を上げることができず解任されました。2014年シーズンからは、名古屋グランパスエイトの監督に就任します。しかし2シーズンで、リーグ戦、ナビスコカップ、天皇杯で確たる成績を残せず。2015年限りで退任しました。それでも柏レイソル時代から積み重ねたJリーグ監督通算270勝は、2016年末現在で歴代1位の成績です。さらに不思議なことに、西野朗が監督を退いて以降、4チームすべてがJ2降格となってしまいました。

ハリルホジッチ日本代表監督の参謀としてW杯出場を目指す

2016年3月、西野朗は日本サッカー協会(JFA)の理事に就任し、技術委員長に就きました。日本代表ハリルホジッチ監督から参謀に指名されて、かつてのように相手チームを綿密に分析し、W杯へ向けた戦いのアシスト役に徹しています。1994年当時は実現できなかったW杯出場に向けて、Jリーグ監督最多勝利の手腕をいかんなく発揮しています。

結局、ハリルホジッチへの理解は深まらなかった。五百蔵容×結城康平対談

ロシアW杯本戦まで残すところわずか。しかし、ハリルホジッチへの理解は、結局どこまで進んだのでしょうか? 監督が変わるたび「リセット」を繰り返してきた日本サッカー界は、また同じ轍を踏むことになるのでしょうか。五百蔵容さん、結城康平さんに語っていただきました。

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ハリルホジッチの解任を叫ぶ前に、最低でも考えてほしい3つの事柄

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