名前山口素弘(ヤマグチモトヒロ)
生年月日1969年1月29日
日本
出身群馬県高崎市
プロフィール小学4年の時サッカーを始め、高崎西少年団に所属。前橋育英高から東海大学に進み、1988年と1990年全日本大学選手権を制覇。

1991年全日空(後の横浜フリューゲルス)に入団。1996年から2年連続でJリーグベストイレブン受賞。1998年日本代表としてW杯出場を決定。中盤として全3試合にフル出場。1998年天皇杯優勝を最後にチームは消滅し、名古屋グランパスに移籍。

1999年Jリーグ優秀選手賞を受賞。2003年からはアルビレックス新潟に移籍して、J2からJ1への昇格に貢献。2005年途中、横浜FCへ移籍し、同じくJ1昇格へ貢献。2007年、チームキャプテンを務めるもシーズン途中に戦力外通告を受け、同年現役引退。

2008年Jリーグ功労選手賞受賞。2009年S級コーチ資格を取得。2012年、横浜FC監督に就任。しかし成績不振で、2014年シーズンで退任。2015年日本サッカー協会技術委員に就任。

Jリーグ通算490試合出場42得点、国際Aマッチ 58試合 4得点。東海大学卒、177センチ、72キロ。

東海大学時代、3年連続で大学選手権決勝へ進み2度の制覇

山口素弘は、群馬県高崎市に生まれると、野球やソフトボールなど色々なスポーツをやっていました。小学4年生のとき、兄の影響でサッカーに出会い、「高崎西サッカー少年団」に入団して本格的にサッカーを始めます。中学生時代は、指導者不在で自ら練習メニューを考案して、3年で県大会優勝するほど上達しました。そして県下の強豪・前橋育英高校へ進学します。攻撃的MFとして活躍し、3年時はキャプテンとして全国高校サッカー選手権大会に導きましたが、悔しい初戦敗退でした。

その後東海大学へ進学し、1学年下の礒貝洋光、澤登正朗らが加わるとチームは最強に近づきます。1988年から3年連続で全日本大学サッカー選手権大会決勝に駒を進め、2年時、4年時に見事な優勝を飾りました。この頃から、ポジションを攻撃的MFから守備的MFへ転向します。そして、ユニバーシアード日本代表に選出されるなど、大学屈指のプレイヤーに成長していました。

チームでは主将として牽引し、日本代表でも初W杯でフル出場

1991年、全日空へ入社して、全日空サッカークラブへ入団します。JSL所属時代から加茂周が監督としてチームを率い、大きな戦術としてゾーンプレスを提唱していました。そして、その構想に不可欠な選手となったのがボランチの山口素弘でした。横浜フリューゲルスとしてJリーグ開幕を迎えると、キャプテンとしてスタメンに名を連ねます。同年の順位は7位でしたが、ナビスコカップではベスト4、天皇杯では優勝とタイトルに絡みました。

その後も、チームではキャプテンとして試合に出続け、日本代表監督に就任した加茂監督からも招集され続けます。1995年、リーグ戦では惨敗しましたが、第1回アジアスーパーカップで優勝、1996年からは2年連続でJリーグベストイレブンに選出されて、リーグ戦でも上位にチームを押し上げました。

初のW杯を目指す日本代表でも、不動のボランチとして活躍します。アジア最終予選では、伝説となっている韓国戦のループシュートを見せましたが、同試合で破れ、その後成績不振で加茂監督が更迭されてしまいました。しかし引き継いだ岡田武史監督からも信頼を置かれて、その後も試合に出場し続けて、見事初のW杯出場を決めます。本戦でも、3戦全敗となってしまいましたが、中盤の要としてフル出場を果たしました。

負ければ横浜フリューゲルス消滅という状況の中、天皇杯優勝

その後もJリーグで活躍していましたが、1998年10月、サッカー界に突如激震が走ります。自身が所属していた横浜フリューゲルスと横浜マリノスの合併が発表され、フリューゲルスの事実上の消滅が明らかとなりました。Jリーグ開幕からチームのキャプテンだった山口素弘は、もちろん反対の陣頭指揮を執ります。

もちろん決定事項は揺るぎませんでしたが、チームはひとつになりました。合併発表からリーグ戦を負け無しの4連勝でフィニッシュし、負けた時点でチーム消滅が確定する天皇杯に挑みます。まさに背水の陣で次々とトーナメントを駆け上がり、準々決勝でジュビロ磐田、準決勝で鹿島アントラーズを破り決勝戦までたどり着きました。そしてクラブとして最後の試合に臨みます。先制を許しましたが、前半終了間際に追いつき、後半で勝ち越した横浜フリューゲルスはそのまま2-1で見事な優勝を飾りました。

その後3チームを渡り歩き、キャプテンとしてチームに貢献

予定通り、チームは合併して横浜マリノス(現在の横浜F・マリノス)が誕生しましたが、山口素弘は新チームには加入せず、GK楢崎正剛とともに名古屋グランパスエイトへ移籍します。そして初年度から、リーグ戦全30試合中29試合に出場して同年のJリーグ優秀選手賞を受賞する活躍を見せました。さらに自身3度目の天皇杯も制し、名古屋での4年間も不動のレギュラーかつキャプテンも務めます。

2003年シーズンからは、J1昇格を目指すアルビレックス新潟へ移籍しました。2年前から、横浜フリューゲルス時代の同僚だった反町康治が監督を務めており、同チームでもキャプテンに就任します。そして移籍1年目にJ2で優勝を飾り見事J1昇格に貢献しました。

2005年シーズン途中に、今度は横浜FCへレンタル移籍します(その後完全移籍)。かつてフリューゲルス消滅時、サポーターたちの手によって作られたクラブであり、自身も当然思い入れがありました。JFLからJ2へ昇格を果たしており、目標のJ1昇格へ向けて、山口のみならず三浦知良、望月重良ら元日本代表を獲得します。そして、2006年、初のJ2優勝を実現し、J1昇格を実現しました。すでにベテランとなっていた山口は、2007年シーズン、キャプテンとしてチームを牽引しましたが、終了を待たずして戦力外通告を受けます。結局チームも、1年でJ2へ逆戻りとなり、自身も現役引退を決意しました。

強力なキャプテンシーで指導者に転身し、横浜FC監督も歴任

在籍した4チームすべてでキャプテンを務めた山口素弘は、引退後の2008年Jリーグ功労選手賞を受賞します。そして翌年、S級コーチ資格を取得し、指導者としての道を歩み始めました。2012年、シーズン途中ながら古巣横浜FCの監督に就任します。当初、J2で最下位だったチームを率い、6連勝を達成するなど大きく順位を上げて4位で終えました。昇格プレーオフで敗れたものの、翌年以降に大きな期待を抱かせます。しかし、続く2シーズンは22チーム中の11位、15位とともに優勝争いに絡めず、2013年限りで退任しました。その後、2015年には日本サッカー協会技術委員に就任し、Jリーグ・アンダー22選抜のコーチとして活躍しています。

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