高井雄平について
名前 | 高井雄平 |
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生年月日 | 1984年6月25日 |
国 | 日本 |
出身 | 神奈川県川崎市 |
プロフィール | 小学1年から神奈川県川崎市の鷺沼ヤングホークスで野球を始める。有馬中3年の時には緑東シニアのエースで4番打者として全国大会準優勝。2000年宮城県の東北高に進学、1年生ながら春の東北大会決勝ではMAX140キロ台のストレートを武器に仙台育英高を完封。2001年センバツに出場。173センチ、73キロ、左投左打
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素質だけならピカイチの高校生にプロが注目
高井雄平が野球を始めたのは小学1年生のころでした。地元川崎にあるチーム、鷺沼ヤングホークスで始めました。地肩が強かった高井はすぐにストレートの球威が増し、先発投手としてチームに貢献するようになります。中学生になっても高井は野球を続け、シニアリーグの緑東シニアでもエースで4番を務め、全国大会準優勝の実績を誇ります。
中学卒業後、高井には全国各地からスカウトが殺到。その中でも高井が選んだのは東北高校。2000年に高井は東北高校へと進学します。1年生からエースとして台頭し、春の東北大会ではいきなり最速140キロのストレートを投じてこの年の甲子園大会に出場する仙台育英高校を完封します。
残念ながら高井自身は高校時代に甲子園出場は叶いませんでしたが、潜在能力は東北エリアの高校生で最高。3年生になるとストレートは最速で154キロにまで伸び、打っては高校通算36本塁打。東北高校の監督も歴代の卒業生と比較し「投げては後藤伸也以上、打っては嶋重宣以上」という表現で高井をたたえました。
そのため、高井の勇名はプロのスカウトたちにも知られていました。2002年のドラフト会議では甲子園に出場していない高校生であるにもかかわらず、高井をドラフト1位指名する球団が2つも現れます。それはヤクルトスワローズと近鉄バファローズ。抽選の結果、高井を指名したのはヤクルトスワローズでした。くしくもこの年、左腕エース石井一久がメジャーへ移籍した直後だっただけに未来のエース候補の入団にチームは盛り上がりました。
ちなみに高井のヤクルト入団時、中学時代の同級生だったというタレントのベッキーが祝福のコメントを寄せたことでも知られ、高井は早くも野球ファンからも注目されるようになりました。
制球難が祟り、投手としては伸び悩む
大いなる期待をもってヤクルトに入団した高井雄平。背番号も石井一久がつけていた「16」に決まりました。周囲の高井への期待は相当高く、4月に早くも一軍に昇格。22日の巨人戦ではプロ入り初登板を飾ります。さらに2ヵ月後の巨人戦ではプロ入り初勝利を挙げ、6月28日の広島戦では先発して5回4失点ながら10個の三振を奪って勝利しました。
結局、1年目の成績は27試合に登板して5勝6敗。防御率5.06、リーグワーストの暴投12など決して褒められる数字ばかりではありませんが、高校卒のルーキーにしては合格点ともいえる成績を残しました。
翌2004年、高井は制球難克服のために身体を作ることを本格的に始めるため開幕から二軍で調整しました。そのため一軍での登板数は前年よりも減りましたが、後半戦に一軍に昇格すると4勝を挙げる活躍を見せます。数字の面で見れば優秀なものの、肝心の制球面の進歩はないままでした。3年目の2005年は逆に開幕一軍メンバー入りしたものの6月で二軍落ちを経験します。成績も4勝4敗というものでした。
この頃の高井は左腕投手にありがちな制球難の速球派投手でしたが、先輩である石井や元広島カープのエース左腕・川口和久のように「荒れ球スタイル」と称せるほどの威力にも乏しいものがありました。そのため、首脳陣はなんとか制球難を克服させたいと懸命に高井の指導に当たりますが、成績は向上するよりもむしろ劣化する一方でした。むしろ球威を損なう形になり、高井の存在感が年々薄れていきました。
やがて2006年に石井が復帰するなどして、高井の背番号は16から22、41へと変更していきますが、その頃には高井の投手としての適性に見切りがつけられていました。そうして2009年のオフ、高井は投手を断念し野手にコンバートを決断します。投手としては7年間で144試合に出場し、18勝19敗という成績が残っています。
打者転向後も苦難の連続
2010年より打者に転向した高井雄平。打者転向は無謀のようにも思えますが、先述の通りもともと打力への評価は高く、スラッガーとしての適性を垣間見せるところもありました。そのため2010年のシーズンは一軍に昇格せずに打者としてひたすら汗を流し、二軍戦で感覚をつかみます。イースタンリーグでは規定打席に到達して2割8分3厘、4本塁打、35打点という成績残しているように、やはり打者としての高い素質を見せました。
プロ入り9年目の2011年、高井は登録名を下の名前である「雄平」に変更。心機一転を図るシーズンとして勝負をかけていました。二軍戦では高井の打撃は開花し、打率3割4分8厘、5本塁打と絶好調でした。そのため、オールスターゲーム直前に高井は一軍昇格を果たします。残念ながら出場機会に恵まれず、打者・高井のデビューはお預けとなりましたが、それでも二軍では規定トップの打率3割3分をマークし、いつ一軍に定着してもおかしくないレベルまで持ってきました。
そして迎えた2012年のシーズン。高井は開幕一軍メンバー入りを果たし、開幕2戦目の巨人戦で打者としてデビューします。その後、一旦は二軍落ちを経験しますが、9月に昇格するとレギュラーとして定着し、1番センターで高井の才能は開花していきました。
しかし、2013年シーズンは一転して苦難の年となりました。開幕早々に故障した高井はリハビリにシーズンの大半を費やし、出場試合数はなんと13試合にとどまります。つかみかけたレギュラーを失う形になったため、高井は絶望しますが、そのうっ憤を晴らしたのが2014年シーズンでした。
12年目にしてブレイク。優勝を決定づけるタイムリーも
プロ入り12年目となる2014年シーズンを迎えた高井雄平。バットコントロールの技術を買われてレギュラーに復帰します。当初は2番センターとしての起用を考えられていましたが、この年にブレイクした山田哲人との兼ね合いや長打力等を加味した結果、5番打者として起用されることになります。しかし、初めてのクリーンナップでやや委縮した高井は4月の時点で打率が2割2分4厘と低迷しました。
これを見た小川淳史監督から「思い切って振れ」という指示を受けて吹っ切れたのか、これ以降高井のバットは火を噴くようになります。いつしかウラディミール・バレンティンを差し置いて4番に座るようになっただけでなく、オールスターゲームにも自身初出場など、まさにブレイクを果たします。最終的に3割1分6厘、23本塁打と主軸打者として恥ずかしくない成績を残します。
翌15年、高井は打撃成績こそ前年よりも落としてしまいますが、ヤクルト打線の中軸を担ってチームを勝利に導き、なんとヤクルトは14年ぶりのリーグ優勝を達成。その決定試合となったゲームで高井はサヨナラヒットを放ち、チームの優勝を決定付けました。以来、高井は勝負強い打撃をウリにヤクルト打線の中軸を担っています。